礼拝の中の賛美(1)

細井 眞  Makoto Hosoi(十条基督教会)

2000年4月1日発行 第535号

 みなさんは「賛美礼拝とは?」と聞かれたらどのように答えますか? 賛美による礼拝、ショートソングによる礼拝、最近作曲された歌による礼拝、ギターやドラムを入れてする礼拝、にぎやかに賛美する礼拝など様々な答えが出てくると思います。どれも現在行われている賛美礼拝の様子を描いています。しかし、本来はどのような意味なのでしょう。

 英語では praise & Worship と言います。その言葉を「賛美礼拝」と訳したようです。賛美歌をたくさん歌う礼拝形式ではなく、賛美と礼拝というこつの要素が一つとなっている礼拝形式です。しかも、それは賛美の歌をさしているのではなく、礼拝の歌を歌うことをさしているのでもないのです。その意味は主の聖徒が主の御前に出て、全人格を持って主を誉め称え、主を崇めることなのです。歌を歌うこと、楽器を演奏することは主を賛美し、礼拝するために用いる一つの手段にすぎないのです。

 「賛美礼拝とは?」と問われたら、感動や喜びをもって主を誉め称える姿や主の御前に出て、涙しつつ主を崇める姿が思い浮かべられればその本質を見ていることになります。

 「賛美」「礼拝」とは別に、わざわざ「賛美の歌」「礼拝の歌」と呼んでいるのには訳があります。ある人々は「賛美礼拝」の中で、「賛美の歌」と「礼拝の歌」を組み合わせて歌うことが賛美礼拝であると考えています。賛美の歌を歌うことは主が喜ばれる最高のものですが、それは賛美の一つの手段です。賛美し、礼拝する中で、私たちは賛美の歌、礼拝の歌を捧げるとともに、祈りの声を上げ、感謝し、叫び、ときの声を上げ、拍手し、手を上げ、勝利の声を上げ、跳び上がり、踊り、霊の歌を歌います。また、主を待ち望み、主と交わり、主の愛に触れられて涙し、罪を許されて悔い改め、静まり、みことばを聞き心打たれ、喜びが湧き上がり、自分自身を主に献げる決意を新たにするのです。

 聖書は至る所で私たちがいかなる時にも主を賛美し、礼拝しなければならないことを記しています。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しいものはそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
 詩篇34篇1~3節

 ある日、私は次から次へと祈りの課題に従って祈っていました。病気の人のために祈り、信徒の必要のために祈り、地域にいる人々の救いのために祈り、地域教会のために祈りました。祈りの後、詩篇を読んだのですが、そこには主を賛美する歌が記されていました。

 私は自分の今の祈りを振り返ってみてハッとしました。私は主に賛美をささげていませんでした。もちろん、私は祈りの中で主がしてくださったことについて感謝しました。しかし、主に礼拝をささげてはいませんでした。主が私になすべき事については祈りましたが、私が主になすべき事はしていませんでした。詩篇の34篇はダビデがアビメレクの前で気が変になったふりをして、その場を逃れた後、詠(よ)まれたうたであると聖書は記しています。なぜ気が変になったふりまでしなければならなかったのか、不満を言おうと思えばたくさん出てくるときでさえも、彼はまず主をほめたたえているのです。


 主は私たちを主を賛美する者、主を礼拝する者として召しておられるのです。