私のペンテコステ体験

増田 哲之 (企画室長/シティビジョン・グローリーチャーチ)

  かつて「心配屋の増田さん」と言われていた私は、三浦綾子さんの「道ありき」を読み、病の中にも、なぜこのように平安をもって生きることができるのかと不思議に思い、教会を探して礼拝に出席したのがはじめでした。説教の時間が終わると、それぞれ祈っているのですが、不思議な祈りの声が聞こえていました。耳をそばだてて聞いていたことを思い出します。主の平安が流れていることが初めての私にも感じられました。異言の祈りでした。

まもなくして受洗の恵みをいただき、すぐに日曜学校教師補助として加えられました。中高生のジュニアキャンプ・キャンプファイヤーで、私の生徒たちは次々と受霊し、異言で祈り始めていました。私は、なかなか受霊することができません。形ばかりでも教師として来ているので、「これは困った、教師としてどうしても受霊しなくてはならない。」との義務感で、とにかく求めて祈りました。

罪を悔い改めることが必要かもしれないとの思いが来て、ありとあらゆる神様が喜ばれないと思われることを、とにかく告白して祈りました。自分勝手であること、人をさばいたこと、偶像を拝んだこと、占いをしたこと、父母を敬わなかったこと、1時間、2時間、3時間と告白して祈りました。3時間位して、異言が出始めました。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1:9) 見えない罪が、神様との交わりをとどめていたことを思います。

次に私がしたことは、その祈りをもって、生徒のところに行き、その子のために祈り始めたことでした。今思うと恥ずかしいことがいっぱいです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

ペテロがペンテコステの日以来、大胆な証人に変えられたように、私も「心配屋の増田さん」は過去のこととなりました。日々ことばで祈ったり、異言で祈ったりする中で、平安とみことばへの信仰が強くされることを体験しています。教会では、毎日1時間祈るように勧めています。

ペンテコステ以来、初代教会のクリスチャンたちが、証人として立ち上がり、福音が証(あかし)され、神の国が拡大して行きました。私達の時代にもそのようになりたいと願います。

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