《福音》恵みのおとずれ 1996年8月号

「五十嵐源吉六女フサ井行年二十七才昭和十三年一月二十五日横須賀市追濱區一二八四大坂新次妻二嫁シ節子、克典ノ二児ヲ挙ゲ昭和一六年一二月三十一日當家二於テ病死ス、依テ若松市二於テ火葬ニ附シ遺骨ヲ分骨シテ當家二安置後チ元實家布藤村墓地實母ノ傍二埋没シテ其霊ヲ慰ムルモノナリ」

これは祖父が僕の母の死を悼(いた)んで位牌の裏に金字で記した文章である。脊髄カリエスを病んで嫁先に二才の女の児とO才の男の児を残して会津の両親の元に戻り、二十七才で病没した我が娘への念(おも)いの深さが伝わってくる。

 祖父は娘の看病を人まかせにせず自分でやったと言う。娘の腰から流出する血膿で汚れた包帯を自分で洗濯し、自分で干し、自分でキチンとまるめていたと言う。また、当時は診しかったベッドを家具屋に特注して作らせたりもしたそうだ。

 そんな祖父が死んだ後、母の位牌は郡山市に住む母の弟の五十嵐六郎叔父夫婦に引きとられ守られてきた。母の死後五十三年を経てその叔父も亡くなり、叔母は母の位牌を私に託した。私は母の小さな位牌を旅行カバンに入れ、叔母宅を辞し、その足で母の生家がそのまま今もある磐梯町布藤へ車を走らせた。

 布藤は五月の優しい雨で煙っていた。目の前にひろがる田野のはるかかなたに杉の林が黒い影の様に沈んで見えた。母はこんな風景と雨と空気と土の匂(におい)のなかで生まれ育ったのだなあと思いながら心のシャッターを落とした。

 翌朝の会津の空は青かった。一族の墓石が並ぶ片隅にひっそりと母の墓はあった。墓石の背面には位牌と同じ文章が刻まれてあった。母の墓から目を上げると磐悌の豊かな稜線が青空を切っていた。

 母の位牌は教会の墓に母の思い出として納めさせて頂き、これからは僕がキリスト教式で守っていくつもりである。会津への僕の感傷旅行は終わり、物心ついた時からの心のひっかかりにピリオドを打てた。

苫小牧・山手町神召教会牧師(現・山手町教会)
大坂克典(召天)