《福音》恵みのおとずれ 2001年 2月号
先日、出張から帰ると「おかえりー」と元気な声で子どもたちが玄関に走り出てきてくれました。嬉しいなぁと感慨にふけり「ただいま」と言うと即座に「おみやげは?」です。手渡すと私はそっちのけでおみやげを持って奥へ走り去っていきました。子どもたちはお土産やプレゼントを喜んでいます。
「子どもは神様からの授かりもの」という言葉をよく聞きますが、同時に最近は幼児虐待という言葉も毎日のように目に耳にします。かわいいはずの我が子をどうして傷つけてしまうのか。これは大変難しい問題だと思います。「子どもは神様からのプレゼント。大切にさせていただきたい」と思う反面、どのようにしてよいのかわからない親が増えているらしいのです。
子どもについての相談を受けて感じることの一つに、子育てのマニュアルを求めておられる方が多いということがあります。そういうものがあれば確かに便利かも知れません。赤ちゃんのおしっこが黄色いのに驚いて、小児科を尋ねたお母さんもいると聞きます。紙おむつの宣伝でおしっこは水色だと思っていたのです。子ども(人間)はみんな違うしマニュアルなんて付いて生まれてきません。
17歳の少年の犯罪が多く、心配で仕方のない親が増えました。しかもその犯罪は男の子ばかりであったので男の子をもつ親が、自分の子どももそうなるのではないかと恐れているというのです。子どもを信じることができないのです。完璧な子どもになると信じたいのでしょうか。私は、失敗もする、口答えもするというのが子どもだと思っています。時には思春期の難しい時期に苦労することがあるかも知れません。そういうのが子どもだと思っています。
そんな中でイエス・キリストを思うと、私はイエス・キリストから子育ての基本を教えて頂けるような気がします。イエス様は神様です。そのお方が私たち人間のところまで降りてきてくださいました。つまり腰をかがめ、目を私たちの目の高さにし、私たちの話を聞いてくださり、私たちの言葉で語りかけてくださったのです。そして、私たちのために命をかけて救ってくださったのです。
愛は愛されてこそ持つことができるといわれます。このイエス・キリストの愛をいただきますと、不完全な(人間に完全はありませんから)親の愛情だけでなく、神様の愛を得ていくことになるのです。イエス・キリストの愛を受けて、イエス・キリストと同じように子どもの目の高さに腰をかがめ、子どもの声に耳を傾け、子どものわかる言葉で話してあげる時、子どもは豊かな愛を感じるのではないでしょうか。
あなたも神様に愛されている子どもです。イエス・キリストはあなたのために命をかけてくださいました。このイエス・キリストに話しかけ、求めてみませんか。
文・藤井敬朗