《福音》恵みのおとずれ 1993年1月号

近年、手紙を書くのにあまり形式にこだわらなくても良いと言う声をあちこちから耳にします。それでも、冬ならば、「寒さがひとしを身にしみる毎日ですが…」、春がくると、「うららかな春の日差しに…」などのひと言を入れなければ、筆が進まないという人がまだまだ多いようです。梅雨期ともなれば、「明けても暮れても雨ばかりのうっとうしい日が続いています…」といいたくなりますし、「夏の盛りも過ぎ…」と、ほっとして書いた後は、「紅葉の映える時候となりました…」の秋が訪れ、そして「謹賀新年」がやってきます。

 誰もが判っている当たり前の時候の挨拶をしたあと、個人的な消息を少しばかり加えてから、一息いれ、そして、「ところで…」と、肝心の用件を切り出すのが、日本での慣習のようです。英文の手紙だと、「少々お願いがあるのですが…」と、いきなり本題を切り出しても、礼儀知らずだと顔をしかめるものはまずいません。いやむしろ包装紙とリボンを抜きにして、単刀直入に中身だけを差し出すのを好まれるようです。

 使徒パウロの手紙には、「風薫る五月(さつき)の候となりました」こそありませんが、日本式に丁寧な挨拶をしてから本文に入っています。ところが、かつて漁師であったヨハネが書いた最初の手紙をみると、形式ばった挨拶が一言もなく、唐突に、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば(主イエス・キリスト)について」(Ⅰヨハネ1:1)で始められています。日本人の感覚からすれば、常識に欠けた手紙の書き出しです。(ヨハネ第2、第3の手紙は、少し手紙らしい体裁を整えています。)

文・北野耕一

 手紙の書き方ハンドブックにあるルールからはみでても一向にかまわないほど、ヨハネは、自分の救い主イエス・キリストを、人々に伝えたいという情熱でいっぱいであったのです。だから、春夏秋冬の挨拶は勿論、自己紹介も、「誰々様へ」も抜きにして、直接用件に入っています。ヨハネが目撃し、その肌で体験したキリストの業、またその救いのすばらしさを、何とかして知らせねばならないという気迫がこの手紙の書き出しから感じとれます。そして、この手紙の受取人は実は私たちなのです。

文・渋沢清子