《福音》恵みのおとずれ 1993年3月号

とにかく使徒ヨハネは一風変わった手紙の書き方をしています。こんな文章で始めているのです。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…」
  (ヨハネの手紙第一 1章1節|新改訳)

 「ことばを手でさわった。」などというような筋の通らない書き方をするので、ヨハネはやっぱり無学な漁師でしかないのだとせっかちに決めてかかる人がいるかも知れません。でもこの手紙の書き出しと、ヨハネによる福音書の書き出しとをつなぎ合わせてみると、この手紙の受取人でなくとも、すぐその意味に納得できるはずです。いや、納得では済まされない感動を覚えざるを得ません。ヨハネは福音書ではこう記しているのです。

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ福音書1:1)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(1:14)」

 ヨハネは当時ポピュラーだった「ロゴス(ことば)」という用語で、主イエス・キリストをまず紹介しています。しかしそれは宇宙の基本原則だとか、理性などの抽象的なギリシャ思想の受け売りではなく、神の本質をもった主イエス・キリストご自身を指しているのです。それだけではなく、「言(こと)は事(こと)なり。」といったへブル思想を多分に加味した表現であるということが出来ます。旧約聖書の感覚からすれば、神が言葉を語られるということは、同時に神が事をなさるということなのです。「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1:3)というのがそれです。神の<言>葉が出来<事>になったのです。ですからイスラエル民族は神の言葉を大切にしました。なぜなら、神は語られる神、「ことば(ロゴス)」であるからです。神が語られる神であるから、神の民は当然聞かねばなりません。ことばであるイエス・キリストが人となって下さったので、ヨハネは「聞いて、見て、じっと見、また手でさわる」ことが出来たのです。ロゴスであるキリストの言葉を聞きますと、さわれるような事が起こります。それほどの体験的な具体性がキリスト信仰にあるのです。

文・北野 耕一

文・渋沢清子