《福音》恵みのおとずれ 1993年5月号

 「みことばの散歩道」という欄を与えられて書き出してから、これで5回目になります。ところが、老ヨハネの手紙の最初の節でぐずぐずしているものですから、いつ散歩に出かけるのだという声が間こえてきそうです。実は公園を散策する前に、案内図を見て、今日はどの順路にしようかなと思案しているようなものなのです。

ところで今回は、ヨハネ第一の手紙の1章1節の最後の言葉を取り上げてみましょう。それは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」の「いのちのことば」ということです。

 つい先日、友人の牧師からテープを貸していただきました。『言葉が怖い』という題で、テレビのシナリオライターで有名な向田邦子さんの講演を録音したものでした。「たとえようもなく優しい気持ちを伝えることの出来るのも言葉ですが、相手の急所をぐさりと刺して、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉です。」ということから『言葉は怖い』になったのです。確かに人間の喜怒哀楽の感情の殆んどは、人間の唇から発した言葉に起因していると言えます。夫婦、親子、友人間のもつれの原因は、やっぱり言葉のやりとりにあります。言葉で人を笑わせ、言葉で人を泣かせ、言葉で人を殺すことすらできるのです。

 それほど影響力のある人間の言葉にくらべて、ヨハネがいう「いのちのことば」とはどういう言葉なのでしょう。まえに「神は語られる神であり、また神は言葉そのものである」と言いました。神が言葉を語られるということは、出来事を起こされるということでもあるのです。だから、宇宙の創造は、神が語られて完成したのです。主イエス・キリストこそ、その神なのです。宇宙や物質を創造されるだけの神ではなく、「いのちのことば」の神なのです。すなわち、人間を生かす神なのです。減びる人間を救う神なのです。この「いのちのことば」であるキリストの言葉を受け入れることは、神のいのちの息ぶきを受けることになります。このいのちを受けたヨハネは黙っておれず、この手紙を書き始めたのです。

文・北野 耕一

文・渋沢清子