《福音》恵みのおとずれ 1996年 11月号

 11月15日ともなると七五三。地面に届きそうな長い千歳飴の袋をさげて、片方の手をお母さんの手にしっかり握られた正装の子どもたち。少々得意満面なその姿が町のあちこちで見られるのはほほえましい限りです。三歳と五歳の男児、三歳と七歳の女児の宮参りの祝いの儀式は、古い昔からの日本の風習でしょうか。華美な服装が一般化したのは、どうも江戸時代以来の都会の商業政策によったようです。

 乳児期から幼児期に入る境目の三歳、幼児期から少年期に入る境目の七歳。そうです、成長に伴う節目の年祝いなのです。育つ子どもも育てる両親も心構えを新しくさせられる点ではそれなりの意義があるのかもしれません。一人一人の子どもを大切にしようとする思いの現われとも受け取れます。

 長生きを願う千歳飴が功を奏したのか、日本は世界の長寿大国にもなりました。しかし現実は?子どもたちは本当に愛され、尊重されているのでしょうか。

 実際には親のエゴによる妊娠中絶によって無数の胎児が闇から闇に葬られ、幼児・児童に対する性的虐待、暴力が問題視されています。そればかりか、子ども同士による校内でのいじめは陰湿を極め、更に青少年の非行が増大して憂慮されているのが現状です。それらの直接の原因はともかく、これらの悲惨な現実は氷山の一角で、その隠れた部分に生命への畏敬と尊厳の欠落があるのです。生命ある人間を自分をも含め、畏敬をもって取り扱う心が欠けているのです。

 生命ある人間を慎重に扱わせる心とは、生命を神から貸し与えられたものと受けとめるところから湧いてくるものなのです。聖書は、神は一人の人間をもかけがえのない卓越したものとして愛され、更に目的があって選んでいると次のように証言しています。

 「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」

(エペソ1・5)

 子どもは両親にとって確かに愛すべき宝でしょう。しかし、目の前の子どもの背後に素晴しい神の存在を認めるときにこそ、子どもにも本当の尊厳をもって接することができるようになるでしょう。

文・高木 攻一