《福音》恵みのおとずれ 2001年 3月号

 あっという間に一日が過ぎていってしまう。明日は何か良いことがあるかもしれないとあわい夢をいだいて床にはいる…心ははずんで次の朝、目覚めましたかしら…昨日と同じような一日が始まる。けだるくなる。ふっとおむかいのご夫婦の仲むつまじさに妬みを感じ始めて、主人のことが気になり始める。毎晩遅い帰宅、主人は子どもと関わってくれない、中3の子の進学についても話し合わねばならないのに、主人は仕事、付き合いがある等とすっぽかす。結婚前は色々と話し合い助け合っていこうと言っていたのに…何だか夢中になれるものも見つからず一日が過ぎてゆく。こんな毎日のくり返しで一生が過ぎてゆくのだろうか…。

 聖書の中に次のような言葉があります。

 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。

聖書 伝道者の書  11章8節・12章1節

 たった一度しかないあなたの人生、大いに楽しみ、謳歌しなくては。しかし、年が寄って「私には何の喜びもない」というセリフを言わないように、一日一日を過したいものです。そんな人生があるのでしょうか? 隠れたベストセラーとなっている聖書の中にそれを見つけることができます。

 まず第一に、この天地の創造者、人間の造り主がおられることを信じることです。このお方は全き義なる方であると同時に、愛なるお方であることを知ることです。

 なぜ教会には必ずあのむごい十字架がかかげられているのでしょうか?十字架はローマの処刑の方法の一つで、極悪人がかけられ、人々にさらしものにされるものです。それなのに、なぜ神の子と言われ、貧しい者を助け、病める者に手をさしのべ、愛に満ちたイエス・キリストがかけられたのでしょうか。イエス・キリストは十字架にかけられる前に裁判を受けました。裁判長のピラトは「この人には何の罪も見出せない」と3度も言われたのです。それなのにイエス・キリストは十字架にかけられ、手と足に釘を打たれた時、血が吹き出たのです。まことに不合理なことです。罪なき者が処刑されたのです。不合理きわまりない事件です。しかし、そこには深い訳があったのです。原罪を持っている人間私たちが処刑される身代わりだったのです。この美しい世界の造り主を無視し、感謝もせず、あたかも自分が世界の中心のように錯覚して自分勝手に生きている私、あなたこそ処刑されるべきなのです。

 イエス・キリストが十字架で流された血潮は、私たちの罪で汚れた心(霊)を全く清めると聖書は宣言しています。身を低くしてイエス・キリストの十字架のみもとに座りましょう。

 聖書は真理の書です。老いの書です。聖書の言葉によって、今までのあなたの人生を清算し、これからの人生を聖書の約束に全信頼をおいていきましょう。

文・上原 時江