主を見上げて踏み出そう
竹中 通雄 (伝道局長/土佐清水キリスト教会)
【それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 マルコ16:15】
クリスチャンに成り立ての頃、「全世界に出て行き…、」との説教を拝聴した時のこと。「牧師さんは信徒を上手にこき使うなぁー。」と思い、むかついたものでした。その後しばらくしてむかつきが納まり、聖書をじっくりと読み返してみた。何回読み返しても、この言葉は、イエス様御自身から私に対して語りかけられている御言葉だと理解した。いくら色濃い色眼鏡を着けて読んでも、相談事、依頼事、勧告事ではない。この御言葉はイエス様からの私達に対する命令なのだと納得した。
命令である限り、従わねばならない。そこで、「よし、伝道にでかけるぞ。」と立ちあがった。しかし、誰に、何を、どのように伝えれば良いのか全く分からない。分からないのだから習うだけのこと。土佐弁を喋(しゃべ)る高名な牧師さんに教えを請うたが、彼は「簡単なことよ。『イエス様は、おんしゃのために十字架ついて死んだがよや。』と話せば良い。」と言った。何度も聞き直した。彼は「それで良い。」と言い切るのみ。彼の言葉を信じて、やってみることにした。
当初、なかなかうまくいかず、時には伝道している筈(はず)なのに、議論に発展してしまい、教会に対する敵対者を生じさせてしまうような事態を起こすなど、恥ずかしい事もしでかした。
ところが、続けて伝道に出かけている内に、聖書が手放せなくなった。聖書への探究心が深まった。祈りの必要に気付かされ祈りによる御業(みわざ)を体験させて貰(もら)った。絶望しきっていた人が救われた時、天にも昇るような喜びを体験させて貰った時など、私の人生に於ける﹁感動の源泉﹂を掘り当てたように思ったものだった。
あれから40年以上が過ぎた。まもなく70才を迎えようとする今、「牧師さんは、うまいこと言うなぁ~。」と思っていた若い時の思いは大間違いだったと心底思っている。
私は牧師に利用されていたのでなかった。私の人生はイエス様本人に導いて頂いていたこと、指導して頂いていたことを証言します。
みなさん、出て行って「福音を宣べ伝えてみて下さい。」福音宣教は「できる人がする」 というのではありません。何にもできなくてOK。一歩踏み出すだけで道は開かれます。歓喜の人生への扉が開くのです。「私の人生は最高だった。悔いは何も無い。」と言い切れる人生へと、さあ、主を見上げて踏み出そう。