そこに愛を加える
片平 勝 (都島中央キリスト教会)
あるテレビ番組で、隣国にありながらも敵対している二つの国の青年たちが、食事を一緒にしながら対話をするという企画がありました。進行役をはさんでのぎこちない食事会でしたが、いわゆる普通の健全な若者の姿がそこにありました。印象に残った のは、まず双方の若者が、平和に対する強い憧(あこが)れを持っているということ。そしてもう一つ、彼らは互いについて〝とてもひどい相手だ〟という教育しか受けてこなかったということです。
どんなに高度な教育で品性が育てられていようと、そこに偏見や憎しみを置いておくならば、すべてが損なわれてしまいます。そこまで極端でなくても、私たちのそれぞれ置かれている環境で、偏見や憎しみを経験することがあります。私たちにとって最も 辛いのは、人との関係の苦しみです。
そんな中、聖書は私たちに、「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。…ゆるし合いなさい」(コロサイ3:12~13)と語ります。そう、キリスト者としての品性を身に 着けるように語ります。そしてその上で聖書は更に大きなチャレンジを語るのです。「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい」(同14前半)と。ただ、善い人になるだけではない。「そこに愛を加えなさい」と語る。これがキリスト者へのチャレンジです。
結婚式を思い起こしてください。そこで新郎・新婦に問われている一つのこと、それは「愛しますか?」ということです。どんなにお互いに、善い品性を持っていても、そこに愛がなければ、さまざまな事情によって、二人の関係は損なわれてしまいます。
これは乱暴な言い方かもしれませんが、私たちの救いの完成は、ただ神さまが正しく善い方だからという理由だけではありません。その神さまが私たちを愛し、その愛をはっきりと表してくださったからです。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5:8)
「愛が冷える」時代をイエス様は語られました。でも私たちは、そこで愛を加える者でありたいのです。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:14後半)と聖書が語るからです。