《福音》恵みのおとずれ 2001年 7月号
金魚すくいをしたいとせがむ4歳の長女。良き思い出になればとゆるした私。娘は喜んで金魚すくいに行きました。予想通り一匹もすくえません。金魚を飼いたくない私の期待に応えてくれた娘。ところが、お店の人が私の気持ちも知らないで、売り物にならないような金魚を一匹くれたのです。しばらくすると今度は2歳の次女が、尻尾の切れた金魚をもらって笑顔で帰ってきました。こうして我が家に2匹の扶養家族が加わったのです。
金魚が水面に口をパクパクすると、棒で水をかき回して空気を入れます。すると普段は気が付かなかった汚れが浮き上がり、水は濁ってしまいます。汚れがひどくなると、金魚鉢を洗い、きれいな水と取り替えます。金魚が気持ちよさそうに、泳いでいるように見えます。
神様は、私たちの心を見られる方です。私たちは意外にも自分の心の状態に気付いていません。神様は、私たちの心の汚れを明らかにして、きれいな心で気持ちよく生きるように変えてくださる方です。
私が、教会に通い始めて半年ほどした頃でしょうか。「激痛を伴う病」という、好ましくない訪問者がやってきました。私の力では追いかえすことができないので、発達著しい現代医学に依り頼んだのですが、これもだめでした。なにしろ厚生省の難病に指定されているほどの病気だったのですから。もし痛みを計ることができたら、その時の痛みのメーターは振り切れていたでしょう。どうすることもできない痛みの中で、自負の心が現れ、揺らぎました。そして体さえもコントロールすることができない無力な自分に頼っている姿が見えてきたのです。耐えられないような痛みの中で、教会で聞いたことを思い出しました。そして、神様が遣わした、救い主であるイエス・キリストに助けを求めたのです。その瞬間、私の痛みは止まりました。
空気は目に見えませんが、空気が動いて木の葉が揺れると空気の存在が分かります。神様も目には見えませんが、痛みを止めるという働きをされた時、その存在がはっきりとわかりました。このことがきっかけとなって、自分の力だけに頼ってきたこれまでの愚かな生き方をやめて、力と愛に満ちた救い主イエス・キリストと共に歩む豊かな生き方に改めたのです。
「愛する人との別れ」「災害」「病気」「貧困」などの試練は、平穏な生活をかき回し、普段自分では気付かない心の奥をあらわにします。すべてのものは神様によって造られ存在しているのに、まるで自分で築いたかのように振るまう心。そこには無力な自分の力に頼るみじめな姿があります。
神様は真実な方です。約束をやぶったり、力足らずで約束を果たせなかったりする方ではありません。試練で苦しみ、悲しみ、悩み、自分でどうにもならない時にも、脱出の道も備えていると約束しています。この約束を信じて神様に助けを求める時、必ず助け出してくださいます。
今、試練の中にあるあなたも、私と同じように救い主イエス・キリストに助けを求めてみませんか。その時、力と愛に満ちた神様と出会い、そこから脱出の道という恵みがおとずれるのです。
「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 (第一コリント10章13節)
文・長尾 有二