いけにえではなく愛を
ラウジー満世 (サクラ・キリスト伝道所)
「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく
神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」
ホセア6:6(新共同訳)
預言者たちは時々、神は民のささげるいけにえを受け入れられないというメッセージを伝えた。これは当時、神の定められたルールに従って、正しいいけにえをささげていた人々にとっては理解し難い、心外な言葉だった。
この預言を受けた人々は規定を満たすいけにえをもって礼拝した。これは神との親しい関係に生きるための正しい方法として、彼らが身に着けたものだった。しかし次第に彼らの礼拝は形骸化(けいがいか)した。そこには、もはや神を愛する心は存在せず、形骸化した礼拝の一方で様々な罪を犯すという、神を畏(おそ)れない者となった。さらに、事情により定められたいけにえをささげられない人々を断罪し、見下すようになっていた。表面的な形だけは整えた立派な信仰者であっても、神を愛する心と弱者への配慮と正義を失った姿が見える。
いけにえを拒まれた神は、形式を整えることを求めてはおられなかった。彼らが神を―彼らに愛を注がれる神を―愛するその心の現われとしての礼拝と信仰生活を求められた。
神は、私たちのクリスチャン生活においても、心の伴わない形式的で立派な行いではなく、神を愛し喜ぶ素直な気持ちから溢(あふ)れ出る礼拝と振舞いとを求めておられる。
「~しなければならない」ではなく、「素晴らしい神様のために~したい」という自然な礼拝と振舞いの中に、私たちの力と喜びが湧(わ)き上がる。
誰もが陥(おちい)りやすい、形骸化した礼拝や神と人への愛の伴わない礼拝から自由でありたい。神の愛を初めて受け取った時を思い起こし、惜しみなく注がれている恵みを数え、それに応えるために、「神様に最高のものをささげたい、神様に喜ばれる礼拝をささげたい」という願いをもって心から神を賛美しよう。その時、キリストの香りが放たれる。