2001年12月1日発行 通巻第555号
アブラハム、モーセ、パウロ、ヨハネを聖書の中に見ると
《執筆者:アッセンブリー新潟キリスト教会 土屋 潔》
先ず私たちはこのテーマで進めていく前に「中高年」とはどこまでを指しているのかを確認することにしましょう。「中高年」と一口に言っても様々な見解があります。広辞苑では「中年と高年。青年期を過ぎて老年期に至る間の年ごろ」。大辞林では「45歳以上65歳程度の人をいう」。
1985年厚生省(現、厚生労働省)は、「中高年」に代る名称として公募して「実年」 と決めました。50~60歳代の層を指す語で、または本当の年齢。実年齢の意(広辞苑、大辞林)。ちなみに、熟年という言葉も用いられている。これは、円熟した年頃の意です(小説家・邦光史郎氏が1978年に用いた)。しかしながら、中年と高年を別々に取り扱うと、中年とは青年と老年との中間の年頃、40歳前後の頃、壮年。高年とは年齢の高いこと、老年を意味しているのです。「中高年」 と「中年」「高年」には若干の温度差が感じられます。
これらから判断するに、中高年とは自ら得た経験を基に活用できる年齢層を意味していると理解します。具体的には、実年とされる50~60歳代は現役であり「…生き生きと」のテーマからすれば対象が何か的外れの感がしない訳ではありません。高年であれば判るのですが。しかし、あえてこの年齢層にある人々が、否、高年(老年)にある方も「さらに生き生きとL 過ごしていくために、三回にわたり稚拙ではありますが記載させて頂きたいと思います。
掲載内容は、
Ⅰ.聖書に見る中高年の生き生きライフ
Ⅱ.教会に見る中高年の生き生きライフ
Ⅲ.社会に見る中高年の生き生きライフ。
今回は、Ⅰ.を取り上げます。
Ⅰ.聖書に見る中高年の生き生きライフ
さて、聖書を見ていきますと旧新約問わず、中高年の方々が活躍をしているのが認められます。しかもこの方々の活躍がなければ今日まで福音が全世界に持ち運ばれたかは疑問と言っても過言ではありません。
例えば、信仰の父とも言えるアブラハム。アブラハム一家は、カナンの地を目指して生まれ故郷であるカルデヤ人のウルを出発し(創11:28、31、15:7、ヘブ11:8)、ハラン滞在中再び神の召しを受けたアブラハムは75歳の時、妻と甥のロトを伴いカナンに向かったのです(創12:1-5)。
彼アブラハムは自分の家族だけではなくて、甥であるロトの家族までお世話をしたのです。お父さんのテラが205歳まで生きたこと(アプラハム自身175歳)を考えれば75歳はまだ青年かも知れませんが、彼の信仰者としての絶頂は、約束の時がきて90歳のサラと100歳のアブラハムにイサクが与えられた(創21:1-5)以降、特にイサクをモリヤの山で主にささげたことである(創22:1-19)。
モーセの信仰者としての時代は、80歳の時にミデヤンの地での召命から始まるのです。
そして出エジプトという大事業を成し遂げ、120歳になったモーセは気力衰えず、目もかすまない状態ではありましたが、民を教え祝福した後にピスガの頂から約束の地を眺め、主の命令によって、モアブの地で死んだのです(申34:1-7)。
一方、新約時代でもこの年齢層の活躍があります。
パウロは純粋なタルソ生れのユダヤ人でありながら、生まれながらのローマ人でもありました。信仰的には当初はパリサイ派に属する者でステパノの殉教にも加わっていましたが、クリスチャンとしては回心から殉教(62-65AD・教文館/キリスト教大事典)までの約30年間でありました。つまり、青年期を終えてこの世代に入りかけからの期間です。福音の世界的普及を実現した最初にして最大の働きはこの年齢層において成されたものなのです。
また、使徒ヨハネは使徒の中では最長寿で90歳ぐらいまで生存したと思われます(いのちのことば社/新キリスト教辞典)。
彼は福音書と三つの手紙、黙示録の五つの書を記していますが、その多くはやはりこの年齢層においてです。しかも、黙示録などは老年においてである。
彼らには共通しているものがあります。
それは、いやいやながら生きてはいないこと。換言すれば、召されるその日まで”明日”をみていたのです。
それを可能にしたのは、
①人生を賭けた(→使命)
②青年期の苦難を賭けた(→信頼)
③み言葉に賭けた(→忠実)
一歩間違えば、異国の地での不遇の死(アブラハム)、荒野ミデアンでの寂しい生涯(モーセ)、或いは裕福でありながら殺人者(パウロ)、異端児(ヨハネ)というレッテルを貼られたまま失意の中で生きたかもしれません。
しかし、主はまさに人生の主なのです。聖書の記述はすでに66巻で完了していますが、信仰者の歴史は今も継続されており、その中に”あなた” もあるのです。教会にそして社会において、主は中高年であるあなたを大きく用いられようとしているのです。なぜなら、主が召されるその日までクリスチャンは生きた輝ける者であり、それが主が求められる実年齢・実年だからです。