《福音》恵みのおとずれ 1997年2月号
去年哀しかったこと。それは、あの寅が死んだことだ。寅と言っても猫ではない。「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯(うぶゆ)をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」この寅である。実に急なせわしない話だった。さくらやおいちゃん、おばちゃんたちの都合など一切お構いなしでフラッと現われ、フゥッと消える、そんな寅らしいと言えばそうなのだが、何んと言っても寝耳に水でこちらはただただ驚くばかりであった。リリーとは何時、何処で、どんな風に世帯を持つのだろうかなど考えていたが、それも夢となってしまったが、これはこれで良かったのだろう。
寅は何処にいても、どんな人の前でもいつも寅であった。田舎のお婆さんに対しでも、名のある人の前でも寅はちっとも変わらない。
そこが凄(すご)い。僕などはなかなかそうはいかない。相手次第でこちらが変ってしまう。真に情けないありさまである。ところが寅にはそんなところがコレッポッチもない。寅はいつも自由だ。誰も寅を変えることはできない。江戸川べりの青空を流れる雲みたいだ。
「てふてふひらひらいらかをこえた」山頭火の句だ。永平寺の壮烈な修業に疑問をもった山頭火の眼に一匹の蝶が風に舞い風に踊りながら永平寺の壮麗な大伽藍の甍(いらか)を越して行くさまが映ったのだそうだ。
そんな、てふてふと寅とはなにか共通しているものがある。そして、その共通性の先端がキリス卜につながっているように思えてならない。キリス卜と寅を一緒にするのは申し訳のないことだとは思うが、僕にはどうもそう思えてならないのだ。だからこそ僕は寅に心ひかれるのだと思っている。
千里先で針がポトンと落ちても、アーッとなるような、何か胸の中がこう柔らかあくなるような気持、そんな気持をキリス卜に対して持てたら僕も寅のようになれるのだろう。
銀幕で寅を演じた渥美清氏の句
「お遍路が一列に行く虹の中」
氏の最後の旬だそうだ。柄の大きな男句をよくしたそうである。
苫小牧・山手町神召教会牧師(現・山手町教会)
大坂克典(召天)