《福音》恵みのおとずれ 1996年11月号

一昨年の8月の末に教会員の母親の葬儀をした。僕が市立病院へ検査入院した時にその方も入院しておられた。僕が607号室でその方は606号室、入口をはいってすく左側のベッドだった。膵臓癌が既に肝臓にも転移している状態なので激しい痛みがあリ、その痛みとの闘いの日々だった。体をエビの様に曲げて痛みを耐えているのを何回も目にした。

 ご本人には病名が告知されていないので、僕にはなんとも慰めようがなかったのだが、この方の人生の最後の日々を一緒に過すと言うめぐり合わせも天の配剤(はいざい)と信じて自分にできることを一生懸命にやろうと決心した。

 朝、洗面所で3回程お会いしたが、いつも明るく、元気よく、「今朝は顔色がいいですよ。ガンバロウネ」と言葉かけをした。また、食器を下げに行く時は、ドアから首をだして、その方の食のすすみ具合いを確認して今日は食べられたねえ、でも、もう一口これを食べたら……などと言ったりした。

 その方に、死についての備えをはっきりとお語りできなかったのは牧師として忸怩(じくじ)たる思いが残ってはいるが、それでも自分にできる小さな事はやったという気持があった。その方は僕が退院して後、15日程で亡くなられた。でも、ご家族から葬儀万端について依頼され、僕が骨を拾うことになった。

 人生は不思議。本当に一期一会(いちごいちえ)だ。こんな小さな事をやったって何の意味もないと思うような事でも、一生懸命にやると、何時(いつ)か何処(どこ)かで神様が花を咲かせてくれるのだなあと、今しみじみ思っている。

 まばたきの詩人水野源三さんの詩だ。

 神さまの大きな御手の中で
 かたつむりは
 かたつむりらしく歩み
 蛍草は蛍草らしく咲き
 雨蛙は雨蛙らしく鳴き
 神さまの大きな御手の中で
 私は私らしく生きる

 
 とってもいい詩だ。僕は僕らしく生きる。

苫小牧・山手町神召教会牧師(現・山手町教会)
大坂克典(召天)