《福音》恵みのおとずれ 1996年3月号

いのちがある、という事は、生きている、という事。

 今日は、いかされていることについていくつか書いてみようと思います。
 
 先ず、私にはいつも部屋で座っている、腹話術人形がいる。しかし、一旦私の手が人形の心棒を握ると、たのしい会話を始める。それを見る人はよく「生きてるみたい」と言う。
 でも私は「生かされているから」 と言う。私が初めて人形を手にした時、この人形はただの物体にしか過ぎなかった。いのちの通っていない物でした。しかし口を開けて、自分の息を思い切り充分に吹き込んだ。そして毎日毎日人形と語り合います。人形を動かすのです。腹話術の師匠との約束は1日6分。継続は力なり。
 人形に対して私は、いのちの通い、を知る。

 次は紫陽花(あじさい)についてお話しましょう。私が東北に居た頃は会いたくてもなかなか許される事ではなかったのに、一昨年春ここに来て「呼べば1時間で来てくれる」 と喜んだ父、他界して早、1年になる。その父と同乗して訪れた紫陽花園、数万本はあろうか色とりどりの花に父の満足そうな顔。みやげに買ってもらった1本は今、玄関先で鉢植えだ。今この家は岩砕石を埋めて建てられた借家、鉢には名古屋の家の庭土を入れ、根を張った。紫陽花は今いくつもの芽を太らせ、あと、三ヶ月もすれば大きな花が咲くでしょう。ぞれは父の笑顔と重ねて眺められる。

 そして、永遠の命を約束された人が心の底から笑ったこと。G刑務所に服役中の男性は、一昨年笑いがなかった。しかし昨年、心から笑っている様子が手に取るように判った。彼は主イエスを信じ救われ、心の変化を体験したので素直に笑える人に作り替えられたのです。

 笑いのボランティアをさせて頂いている私はキリス卜に出会い、生きる喜びを与えられ、生かされている毎日が感謝で一杯です。