《福音》恵みのおとずれ 1993年2月号

科学者はまず観察から仕事を始めます。見て、聞いて、触って、測って、分析して、それからあらかじめ設定されていた仮説を証明しようとします。ヨハネの手紙の書き出しを見ますと、「私たちが聞いたもの、目でみたもの、じっと見、また手でさわったもの」と科学者のような観察手順が丁寧に並べられています。しかしヨハネが書いた手紙の文章を注意深く読んでみると、科学者の観察記録とは全く質の違った文章であることに気がつきます。

 実はヨハネは科学者ぶった言葉をばらまいて、手紙の受取人を彼の意見に納得させようとしているのではないのです。むしろ科学では到達できないような所に私たちを連れて行こうとしているのです。

 科学者と違って、芸術家は物や人や現象を別な感覚でながめます。だから一般の人が見過ごしているような出来事の片隅から、心をうつ詩を生み出します。また、当たり前の形から、美の構図を捉えます。生活の不協和音のなかから、短調の悲しげな音色をより分けます。そのようにヨハネは芸術家の感覚でこの手紙を書いているのでしょうか。確かに、彼の手紙の内容は、ヨハネ福音書の内容と同様に、非常にユニークな色彩を持っています。でも彼の手紙は、持って生まれた鋭敏な芸術的感覚から創造されたものでもありません。

文・北野耕一

 ヨハネはこの手紙で何を証拠だてようとしているのでしょうか。「いのちのことば」が「初めからあった」という事実、そしてその「いのちのことば」が主イエス・キリストであること、そしてさらにその「いのちのことば」にヨハネは直接出会ったということを証ししようとしているのです。

 この世にある知識と感覚だけで、「初めからあったもの」とはっきり言い切ることのできる人はいないはずです。ヨハネは旧約聖書の冒頭のことば、「初めに、神が天と地を創造した」その時点よりさらにさかのぼって、神様の天地創造以前の事実をこの手紙の書き出しにしているのです。科学者にも理解し得ない「宇宙の起源のその前」を語っているのです。神様のふところを、そっとみた者でなければ到底書けない真理なのです。

文・渋沢清子