《福音》恵みのおとずれ 1993年10月号

 結婚のプロポーズをするのに、通りすがりの女性を捕まえる人は先ずないと思います。健全で、長続きのする結婚生活を考えているなら、決断をするまでに、相手についてできる限りのことを知ろうとします。そうして集めた資料をもとにして、イエスかノーかを決めるのです。ところが、何かを知っているというだけで、最終的な決断ができるわけではありません。客観的な資料、例えば、顔つき、背丈、趣味、家族、収入、学歴がどれほど微にいり細にわたって揃っていても、直ちに頭を縦に振ることができるとは限っていないのです。もう一つプラス・アルファが要るのです。それを愛情と呼んでいる人もいます。恋愛関係に見られる燃えるような愛情があれば、ほのかに引かれる情があり、逆に何もかも申し分がないのに、この情だけが相手に反発することもあります。肌が合わない、とか波長が合わないとか言う、主観的な分野です。案外これが決断の重要な鍵になります。

 さて、使徒ヨハネは、愛の章と言われている彼の最初の手紙の第4章に、「愛のある者(愛する者…口語訳)はみな神から生まれ、神を知っています。」(7節)と記しました。彼は、愛することと知ることとを並べて書いています。男女関係では、愛しているから、知ることができるようになったのだという人が居れば、いや、知ることができたから、愛するようになったのだ、と愛と知の先行順位を良く議論します。

 同様に、神を知ることは愛することと関係があるのだとヨハネは語っています。ところが、「愛する」と「知る」との間に、因果関係があるとは言い切れないような書き方をしているので、どちらが先行するのか断定できません。ただ、両者に相関関係があることだけは確かです。目に見えない神を「知る」という体験は、「愛する」という行為と切り放せないのです。「愛して」、「知って」、「もっと愛して」、「更に知って」という循環関係がそこにあります。しかし、問題は、愛する対象を、ヨハネが故意に省略していることです。神を知るためには神を愛することは勿論ですが、愛せないような人を愛することができるようになったなら、確実に神を知ることができるのだと、言おうとしているのではないでしょうか。

文・北野耕一

文・渋沢清子