《福音》恵みのおとずれ 2000年 10月号

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

(聖書・ヨハネの福音書 15章5節)

秋です。10月、辺り一面、刈り取りの時節到来です。さてこのヨハネ15章は、イエス・キリストのぶどうの木のたとえの物語です。

 もともとは聖書に出てくる、ぶどうのたとえは、人をさしていったものです。しかしそのぶどうは、枯れてしまい、役立ちはしなかったのです。

 そこでイエス・キリストは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝なのだ。」といったのです。何という発想の転換でしょうか。ぶどうの木がイエス・キリストで、枝が人間となるなら、枯れる心配はありません。枝の運命は木にあるからです。枝は細くねじれ、すべては貧弱にみえます。しかし、木は四方に根をはって、大きく枝をのばします。何の変哲もない枝が、木につながって、花を咲かせ実をならせます。

 店先のたわわなぶどうに、誰が枝を想像しますか。私たちの中には、十字架の救いを受け入れ、教会に行き始めたばかりの方もいることでしょう。そこでクリスチャンの優しさにふれ“ああなろう”とか、また“あんな信仰は無理”と、とまどうこともあるかもしれません。

 しかし、あなたにひとこと言わせてください。あなたがあなたらしい実をその生活の中に結ぶ秘訣は、まわりに気をとられるのではなく、今日まであなたを助け導いてくれたイエス・キリストに心をとめ、彼にしっかりつながってみることです。キリスト教のすそのは広く、深いですが、信仰の土台はイエス・キリストです。みことばに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、…そういう人は多くの実を結びます。」とあるとおりです。みことばは、あなたに実を保障します。けれどもその保障はあなたが約束に立つ時有効となるのです。今日から、あなたがイエス・キリストとつながり、彼と二人で歩き始めてみてください。

 カルバリの十字架が
 世界を罪から救ったなんて
 私にはわからない。
 十字架のくらべようのない愛が
 神の愛を持って来てくれた。
 私の知っているのはそれだけ。

 日本のクリスチャン思想家がある時「後世への遣物(実)」という講演を残しました。彼はその中で『金が一つの遺物となるが、それを残すのに無力なら、事業を起こせ、しかしそれに限界をおぼえるなら、筆をふるえと、後世に文学を持って貢献する道をめざせ、それもまた困難なら、先生となり、生徒にとって頼もしい教師となる道を残すことである。だが才能で真理を教える働きは、誰にでもできはしない。所詮、金も事業も文学も先生になる道でさえ最大ではない。イエス・キリストを率先して信じ、イエス・キリストにあって「乱れた世」を「希望の世」であることを分からせる道、これこそが誰もできる「勇ましい高尚の生涯」である。』と言いました。

 あなたが実を結ぶための発想の転換とはなんでしょうか。それは、あなたがイエス・キリストのために努力する人生を拓くことではなく、イエス・キリストという太いぶどうの幹に枝として、しっかりつながっていくことにあるのです。さあ、クリスチャンになろうと決断する心にこう問うことです。「わたしはイエス・キリストの木にとどまって実を結んでいこう。」と。

文・丹澤陞

文・渋沢清子