《福音》恵みのおとずれ 1990年 9月号
「私の家族は教会に行っています」と言うと、「へー。何か悩みでもあったのですか」と気の毒そうに言う方があります。あるいは「教会に、どうぞお越しください」と言うと、「教会に一般の人が行ってもいいのですか」と聞く方があります。どうも、日本では『教会』というと『悩んでいる人の行く所』、『心の清らかな人の行く所』というイメージが強いようです。しかし最近は若い方々が「結婚式だけはキリスト教式でやりたい。それも高原の中にある教会で」という希望が強いようで『敷居が高い』『閉鎖的』と映る教会のイメージに少し明かりが差し込んで来たような気がいたします。……というのは冗談としまして、どんな世界でもその中に飛び込んでみなければ分からないのと同様、教会も中に入ってみなければ分からないと言えます。いざ入ってみますと、聖人が集まっているわけではなく、ごく『一般の人』の集まりであることが分かります。ですが、ちがっている点もあります。それは自分に対する正直さです。かつて私が初めて教会に行こうと決意した理由の一つは、クリスチャンであった友人の持っていた「自分自身に対する正直さ」にありました。人間だれしもが弱さを持っているのに、人前では弱さを見せないことのほうが多いようです。なぜならそのほうが世の中を渡って行くのに都合がよいからです。人前ではつくろって自分を大きく見せるのです。そしていつの間にか、人に見せている自分が本当の自分だと思うようになってしまうのです。これが人生だとしたら、人生とはむなしく残念です。しかしそうならない道があるのです。
新約聖書のルカ福音書19章に、取税人ザアカイとイエス・キリストとの出会いがでてきます。ザアカイは極端に背が低く、おそらくそれが原因で劣等感を持つようになり、当時もっとも荒稼ぎのできる取税人になりました。ザアカイは取税人のかしらになり、多額の金も手に入れました。ですが、満たされなかったのです。だれからも愛されませんでした。そんなときにイエス・キリストと出会ったのです。
ザアカイは自分を差別せず受け入れてくださったイエスを知ったのでした。この出会いはザアカイの人生を変えました。ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と告白しています。ザアカイは自分が愛されていることを知ったのです。『愛されている』という確信は、過去のあやまちを認め、それを清算し、もはや人前でつくろわないザアカイを取り戻させたのです。
聖書はこのことを「罪からの救い」と呼んでいます。このパンフレットを手にしているあなたも、神から愛されているのです。なぜならイエス・キリストの十字架はあなたのためだったからです。そしてもしあなたさえ真剣に求めるなら、『救い』はいつでも手の届くところにあります。どうぞ、お近くの教会をお訪ねください。
文・玉川 吉昭