《福音》恵みのおとずれ 1993年 2月号

「世界には多くの宗教があり、みな同じ所を目指しているのだから、どの宗教の神を拝んでもよいのではないか。何もキリスト教の神だけが正しくて、唯一の神であるとは言えないではないか」と、先日、一人の男性から質問されました。しかし、そこには誤解があります。
まず第一に「自分に合った」宗教を選択しようとします。
歴史の中で人類は、神に達することができるような巨大な「バベルの塔」を建設しました。

今日、多くの宗教は、これと同じことを繰り返しているのではないでしょうか。
それら多くの宗教は、人間の神へのあこがれや願望が組み合わされ、信仰となったものです。それは「人間から神へ」の方向を目指すものであり、自分に一番ピッタリとした都合の良い神を選ぶこととなる。神はもはや主人ではなく、人間に仕える僕となってしまう。
人間の神への願いを携さえて、神の水準にまで「上ろう」とするのにひきかえ、聖書の神は、人間の水準にまで「下られた神」なのです。神は、私たち人間を愛してひとり子キリストを遣わし、キリストによって語り、道を示されました。キリストは、
「わたしが道であり、真理であり、命です。わたしを見た者は父を見たのです。」
と語っておられます。さらに聖書は
「キリストは神の御姿であられる方なのに、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、実に十字架の死にまでも従われた。」
と記しています。
神の側から人間の努力や行いではなし得なかった、救いの業を完成して下さったのです。
「本当の宗教」は、私たち人間の根本問題に光を与え、また解決を与えるものでなければなりません。その根本問題は罪の問題でしょう。罪は自分の欲望をコントロールすることができず「私が思っていることを、そのまま口に出してどこが悪いのか、自分がやりたいことを、その通りにして何が悪いのか」と言います。そこには本当の愛がありません。また正しい方向へと変える力もありません。罪は神を第一にしないで、自分を第一にするところから始まります。罪はあなたの心から平安を奪い、あなたを罪の奴隸にするばかりか、あなたを永遠の死に追いやってしまう恐ろしいものなのです。
人はだれも罪に打ち勝つ力をもっていません。キリストだけが私たちを罪から救い出し、悪に勝たせ、死の支配から解放することの出来る、まことの救い主なのです。
あなたがキリストを信じるならば、勝利ある人生を送ることができ、永遠の幸いが約束されているのです。このキリストを信じてみようではありませんか。
文・川上 良明