助 け 主
堀川 寛 (中国教区長 広島基督教会)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ福音書14章16節)
ここで「助け主」と訳されている言葉は、原語では「パラクレートス」、つまり「そばに(パラ)」「呼ばれた者(クレートス)」という意味であることはよく知られている。英語の聖書では「カウンセラー」と訳されることも多い。
愛する人を失ったとき、重い病いを宣告されたとき、突然の災害で何もかも失ったとき、当事者でない人間に何ができるだろうか。へたな慰めの言葉など、それこそありがた迷惑だ。「がんばって下さい」と言われても、何を支えにがんばればよいのか分からない。投げかけられる御言葉さえ重過ぎることもある。
信仰者ゆえの苦しみもある。「神様はどうして…」と疑問に思うのは当然のことだ。いつまでもくよくよしているのは不信仰じゃないか、と自分を責める気持ちも出てくるだろう。教職者であれば、信徒の良き模範となろうとして無理をしてしまう。
しかし、誰でも嬉(うれ)しいことがあれば笑うし、悲しいことが起これば泣く。辛(つら)いことが重なれば気持ちは暗くなるし、長引けば病気にさえなる。神は私たちの心をそのように造られたし、信仰者であってもその心の形に変化はない。いや、むしろ神は私たちの心を、繊細(せんさい)で壊(こわ)れやすく造られたのだと思う。
エリヤは、カルメル山での大勝利の後、イゼベルに命を狙(ねら)われていると知って荒れ野に逃げた。そして、自分の命を絶ってくれ、と神に願った。神は彼を歩かせ、眠らせ、食べさせ、話させることで回復された。人間の心を創造された神は、人間の心を回復する術をもご存じなのである。
聖霊は「助け主」として与えられた。それは「いつまでも」私たちと「ともにおられる」ためである。何一つ押しつけがましいことをなさらず、私たちの心に寄り添われる。本当に辛い体験をした多くの人が、「ただ黙って一緒に泣いてくれた人」のことを覚えているという。聖霊とはそのような方であり、聖霊に満たされた人とは、そのような働きのできる人ではないかと思う。