自信を持って伝えよう
中川 慎一郎 (沖縄中央アッセンブリー教会)
多様な価値観、考え方の輪、交わりの中にいると、時に自分がどこに立っているのかよくわからなくなり、ペンテコステらしさが薄れてしまうような感覚になることがある。
私はペンテコステらしさというものがアッセンブリーの自分らしさ、アイデンティティーにもそのままつながっているもので、本当の自信につながると思う。
ただ、自信というとどこか傲慢(ごうまん)さがあるように受け取ってしまいがちで、牧師になってからは特に口にしなくなってきている。自信は時に誇るだけにとどまらず、おごりへとつながる。聖書には高ぶる者は退けられる (ヤコブ4:6) と戒められている。誇るものは主を誇れ (IIコリント10:17) とある、まさにその通りだろう。
だが人から教えられたのだが、自信とはそもそも自らを信じると書く、そういう深い意味があるものなのだと。問題は、自らの何をどう信じているのか?ではないだろうか。
与えられた恵みに自信を持ちたい。自分の何にも自信を持つのでない。私のために十字架にかかってくださった主は、今も生きてそば近くにおられる、私のためにとりなしていてくださる、私の内におられる。このお方だけに私たちは自信と誇りを持つべきなのだ。
この地上のどんな業績、栄光も天の国の扉を開けることはできない。しかし教会にはその天国の鍵が与えられている。これはいったいどれほどの恵みであるのだろう? この誉れを与えてくださっているのはいったい誰であるのか? 人の目には誉の大きさが強く残るが神様の目にはへりくだりの信仰が残るものだ。
器としての自らの大きさなど本来何の意味も持たないことをわかっているはずなのに、どうしてコンプレックスに振り回されたりするのだろうか? もっと主イエスに触れ、触れられてイエス様を知り、大胆な自信を持つようになりたい。それこそがペンテコステなのだから。
ペンテコステ信仰はみことばと主ご自身へと向かうものであるのだから、自分の何かを伝えるのではなく、この私を十字架で救ってくださって、今も生きて愛しておられるイエス・キリストを伝えたい。そうだ、もっともっとイエス様に自信を持とう。
「私たちは自分自身を宣(の)べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。」(IIコリント4章5節)