月刊アッセンブリーNews 2015年11月号

一つを願う

善徳 映子 (宇部神召キリスト教会)

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」 詩篇27:4

礼拝堂でひざまずき何曲も賛美を捧げ聖書を読み、み言葉の応答の祈りをします。立ち上がって再び賛美します。そのようにして私は「主を思う」時を持ちます。5年前に大きな試練を体験するまでの私は「主の麗しさを仰ぎ見る」よりも、山積する問題や課題を祈ることを優先していました。詩篇34篇7、8節には「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。私も「主に」何かを求めることより「主を」求める祈りに変えられていきました。

私たちは日々、なすべきことが沢山あります。仕事、子育て、家事、学業、伝道、奉仕など、時間に追われて疲れ果てること、思い煩うこともあるでしょう。そのような私たちの最優先事項は、神を愛する者として「主のすばらしさを味わい、これを見つめること」であると思うのです。

ダビデは試練の中で主に心を注ぎ、主に思いを向けることをやめませんでした。サウルによる命の危機、外敵との戦い、身内の謀反、自分自身の罪の問題、極限状態の精神と肉体の疲労の中で、主を仰ぎ見ることを選び取った彼は、数多くの詩を記し主の麗しさをほめたたえました。

私たちがすべての思いを主に向け、「天のお父さん」「アバ父よ」という言葉を発する時、そこは主の臨在が満ちあふれるところとなります。一年ほど前の聖餐(せいさん)式での出来事です。聖餐式中に式文を読んでいると、突然イエス様がその場に立っておられるような深い感動に包まれ、涙ぐんだことがありました。後で確認したところ分餐の奉仕をしていた姉妹も同じことを感じておられました。「アドナイ シャマー」「主はここにおられる」(エゼキエル48:35)主の臨在の中にあることは、他のなにものにも代えることの出来ない恵みです。

伝道とは人々を滅びから永遠の命へ導くと同時に、この素晴らしい主の臨在の中に招き入れることであると思うのです。