収穫の主

西宮 清 (北海道教区長・釧路神愛キリスト教会)

収穫の秋です。イスラエルではこの時期をブルの月と呼び、オリーブが収穫される一方で麦の種が蒔(ま)かれる時期でもありました。ソロモンによる神殿もこの月に完成されたと記されています(1列王6章)。

さて、イエス・キリストは弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と語っておられます(新共同訳 マタイ9章37、38節)。

イエス・キリストが町や村を残らず回り、福音を宣(の)べ伝え、ありとあらゆる病気を癒(いや)しておられたからでしょう、大勢の群衆が主のもとに導かれていました。

これに先立つマタイ8章から9章には、イエス・キリストによる素晴らしい癒しの業が数多く記されています。そこには3つの特徴が見受けられます。

①自分から進んでイエスのもとに近づいた人々(重い皮膚病の人、主の服に触れた女性、二人の盲人)。

②誰かの助けによって主の御業(みわざ)に与(あずか)った人々(百人隊長の僕、ペトロのしゅうとめ、中風の人、指導者の娘)。

③キリストご自身が近づいて御業をなされた人々(二人のガダラ人)。

福音書に見受けられるこうした状況は、現在の教会にも当てはまります。悩みや苦しみからの助けや救いを求めて自発的に教会の門を叩(たた)く人。誰かに誘われ、祈られて教会に導かれた人。主ご自身が直接的に介入されて教会に導かれる人がいます。けれども圧倒的に多くの人は、「誰かに連れられて」キリストのもとに来たのです。救いを求める自覚のある人ばかりではありません。指導者の娘はすでに死んでおりましたし、二人のガダラ人は悪霊に取りつかれていたゆえの発言ですが、「かまわないでくれ」と主を拒んでいたのです。それでも、イエス・キリストは彼ら一人ひとりに御手(みて)を伸べ、み言葉をもって病を癒してくださいました。

こうした著しい御業をなされた主が、「収穫は多い」と言われるのです。オリーブを収穫するだけでなく、その先を見越して麦を蒔(ま)くように、伝道しつつさらなる収穫に備えましょう。主は、働き手が少ないから祈りなさい、と命じておられます。それは働き手が足らなくなるほどの収穫を期待してよいということです。

なぜなら、今これを読んでいるあなたも、そして私も、すでに主によって収穫された魂のひとりであり、祈り手であり働き手なのですから。

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