月刊アッセンブリーNews 2016年9月号

いのちは主のもの

高口 喜美男 (JAG監事 川尻キリスト教会)

大学で法学を学んでいた若き日のルターは生家から大学に戻る道で雷に打たれた時、「聖アンナ様、お助け下さい! 私は修道士になります!」と叫びました。宗教改革者への神の召しの瞬間であったとも言われています。

今年の4月14日、家内が入院中のため、男やもめ?暮らしの夕食後の食器を洗っていた時に突然襲ってきた、これまで経験したことのない激震。私は老朽牧師館が崩れると直感し、死の恐怖さえ感じました。その瞬間、ルターの「神の召し」ではありま せんが、「いのちは主のもの」「生きるも死ぬも、主が『時』を支配しておられる」ことが私の魂にひらめきました。

二日後の、更に強い余震ならぬ「本震」。再度、恐怖を味わいました。またもや、すべてが散乱。そして、到底「余震」とは思えぬ強い余震が繰り返される中で、会堂や牧師館の歪(ゆが)み、鉄扉の落下、納骨堂の傾きと沈下、ブロック塀の倒壊、駐車場の深く長い地割れといった様々な被害が次々に目立ってきました。この間、被災し、避難した信徒たちへの連絡や対応等に苦慮し、目まぐるしい日夜が続きました。

その上、その少し前に新たに拝命した二つの教会の主管者の責務。その一つは、正味、兼牧であり、それぞれに重い問題もあり、そのためにも遠路、奔走(ほんそう)し、限界と向かい合う日々が続きました。

しかし、以前、耳にした言葉が私の心にいつもありました。「あなたが、実にくだらない、と思ったその日は、昨日、亡くなった方が、どんなにかして生きたかった日なのです」。

私は「くだらない」と思ったことはありませんが、あれこれが重なってのしかかり、心身ともに音(ね)をあげたくなったりはしていました。しかし、「今もなお、主の働きのために生かされている尊さ」が心を支配しました。そして時として、悲鳴をあげながらも、感謝して、今日の最善を主にお献げしたいと願い続けています。

なお、震災にあたり、諸教区、諸教会、また、多くの方々から頂いたお祈りやご支援に対しては、場をあらためて、お礼を申し上げたいと思っております。