《福音》恵みのおとずれ 1996年10月号

先年の 5月の末に、牧師仲間4人で小旅行 を試みた。 1 年 1 回の恒例である。京都を出、 奈良明日香村のなんともたおやかで、優しい風景に 目をなごませた。

 バラバラッと降り出した雨は程なく本降りになった。白いしぶきをあげながら車を走らせ吉野山に登り宿をとった。翌朝は昨日の雨がうそのような快晴となった。4人つれだって朝の散歩をした。

 吉野山と言えば桜だが、義経と静御前との悲しい別れの場としても知られている。吉水神社の書院に義経愛用の鎧(よろい)があった。そのあまりの小ささに驚いた。歌舞伎十八番勧進帳の判官役を演ずる役者がいつも小柄であることの理由がわかった。義経は今風に言うと馬の騎手の武豊(たけゆたか)の ようだったのではあるまいか。小さく、軽い 、でも強靭(きょうじん)なバネのもちぬし、そんな感じがする。「吉野山 峰の白雪踏み分けて  入りにし人の跡ぞ悲しき」 静御前の歌だそうだ。

 吉野の山に降りしきる雪をかき分け、かき分け、義経は奥州平泉へ落ちて行< 。静は深い深い吉野の雪に埋れながら義経恋しさに身を焦がす。そんな光景が目に浮かぶ。

 悲しみは人の心をうつ。義経と静の恋がハッピーエンドだったら後世に語り継がれることもなかっただろう。幸せになれなかったからこそ、悲しい運命が2人を引き裂いたからこそ、義経と静は今も日本人の心に生きているのではなかろうか。

 自然の世界に直線は存在しない。自然は無数の曲線の世界である。プラスとマイナス、陰と陽、明と暗、強と弱、これが自然でこれが人生なのだ。

 自分の人生の少しのマイナスは喜んで受容しようではないか。プラスばかりを求めるような生活はやめよう。プラスを喜ぶようにマイナスをも喜ぼうではないか。おしるこも砂糖ばかりではおいしくない。ひとつまみの塩、これが大切なのだ。

 万緑に 悲恋は遠く 吉野山  =糖児=

苫小牧・山手町神召教会牧師(現・山手町教会)
大坂克典(召天)