《福音》恵みのおとずれ 1999年 11月号
今年もキリストの降誕を祝うクリスマスが近づいてきました。キリスト教の歴史の古い欧米などでは、クリスマス前の4週間を「アドベント」(待降節)と言って、一週間ごとに一本ずつローソクを灯したり、町や家を掃き清めて、キリストの来られるのを待ち望む習慣があるようです。
しかし、聖書を見ると、キリストの降誕は人間にとっては全く意表をつく出来事であって、み告げを受けたマリヤもヨセフも羊飼いたちも一様に恐れおののいている姿が描かれています。それは、日頃の私たちの生活が仕事をしたり、飲食をしたりという水平的営みの中にいるので、そこに天から神が介入されるわけですから驚き恐れるのは当然かも知れません。
けれどもさらに聖書を見ると、彼らは神のみ告げに対して、ただいたずらにうろたえておらず、「不思議に思った」「思いめぐらした」「心にとめた」という反応を示します。そして、そこからキリストへの信仰に目覚めていきます。
キリスト信仰は昔も今も生来の人間にとっては突然のことであったり、意表をつかれることであるかも知れません。
私のキリスト体験もその例の一つです。私は高校3年生の時、学校で起こったある出来事から信仰を持つに至ったのです。それはある朝、登校すると、教室の前で十数人の生徒たちが廊下の天井から吊り下げられている大時計に飛びついて遊んでいました。(退屈だったのでしょう)早速私も仲間に加わって、順番が来て助走して飛び上がった瞬間その時計に手がつきました。しかし、私と共にその大時計も見事に着地し、粉々に砕けてしまいました。
その途端、廊下には誰もいなくなりました。私はみじめな気持ちでその大時計をかかえて職員室に向かいましたが、その時一人だけ教室から出てきてくれた生徒がいて、あとからついてきてくれたのです。散々叱られましたが、その生徒が実はクリスチャンでした。そのことがキッカケとなって、私はあるタ方散歩がてらに教会に行きました。
説教も賛美も祈りも私には初めての経験で、それはただ驚きだけでしたが、それから時々教会に行くようになりました。そして、聖書の言葉について、キリストについていろいろ考えるようになり、数ヵ月後に洗礼を受けることが出来ました。
ある人々にとってキリスト信仰は意外性や違和感から入るかも知れませんが、その中で聖書の言葉を「思いめぐらし」「心にとめて」取り組む時、徐々にキリストへの理解が深まって、やがてキリストが私を罪から救うためにこの世に来られ、十字架にかかられたという真理を受け入れることが必ず出来るようになります。
今年のクリスマスは思い切って教会に行かれるなら、そこにキリストとの新しい出会いが待っているはずです。
文・久保田 潔