vol.86- message 「闇に輝く光」

《福音》恵みのおとずれ 2000年 12月号

 駅前通りを中心に、冬枯れの木に電球を飾り立てて、光のイルミネーションが灯る頃になりました。私はこれを見るたびに、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになります。街全体がクリスマスの準備を始めた、と思って単純に喜んでもいいのですが、夜になっても電球を縛り付けられて、煌々と照らされ、休むことも出来ない木々が痛々しくてかわいそうになります。あれは、やはり木にとっては大変迷惑なことだろうと思います。

 クリスマスが、一年で最も夜の長い暗い季節に祝われるのには、深い意味があります。「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1章9節)としてお生まれになった主イエス・キリストを迎えるのに、今は最もふさわしい季節なのです。闇がどんなに濃く深く厳しくとも、すでに光は輝いているからです。

 闇に輝く光として、私には忘れられない体験があります。数人の友達と蕨(わらび)を取りに山に行った小学校2年生のときのことです。夢中で遊んでいる間に、帰り道がわからなくなってしまいました。やがて日が暮れて周りが暗くなると、いよいよ心細くなり、一人が泣き出したのをきっかけに、真っ暗な山中を走り回って、ますます山奥に迷い込んだのです。恐怖と疲労で地べたに座り込んでから何時間が過ぎた頃でしょう。暗闇の中にボーッとゆれる松明の灯が見えたのです。その灯はやがて5本、10本と増え、「オーイ、オーイ」と叫ぶ声も聞こえてきました。村中の人が総出で捜し出してくれたのです。真っ暗闇の中で見た松明の光は、強烈な印象で今も瞼(まぶた)に残っています。

 聖書が「闇」という時、それは神を拒み逆らう世界の姿、意図的に神を締め出している人の心の状態を指しています。神から離れて生きる人は、エデンの園を追われたアダムとエバのように幸せから遠ざかって行きます。太陽に背を向けると自分の影しか見えないように、神に背を向けると、闇の中を不安と恐れに囲まれて歩むことになります。何のために生まれ、どこに向っているのか、人生の意義も目的もわからなくなります。

 最も深い闇は、自分の罪深さを自覚する時に実感します。外側はどんなに飾っても、正直に内面を見つめると、自己中心で欲と汚れに満ちていることがわかります。

 しかし、そのような闇の中にいる私たちを救うために「世の光」として、イエス・キリストが来られました。最初のクリスマスの日以来、「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ1章5節)のです。あなたの心の闇がどんなに深くとも、神の救いの光は届きます。世界を覆う罪と死の闇がどんなに暗くとも、すでにイエス・キリストの十字架によってゆるしと救いの道は開かれているのです。

あなたの心には光が灯っているでしょうか。
今年のクリスマスは教会に出かけて、まことの光を見出してください。

文・内川 寿造