《福音》恵みのおとずれ 2000年 11月号
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
(マタイ5章3節)
近頃の日本の世相は、ありあまる「物」に押しやられて「心」の居場所がなくなってしまったかのようです。クリスマスが近づくと、これらの「物」が益々派手な色を付けて店頭に並び、人々の目を奪おうとします。「物」が悪いわけではありませんが、「心」の支配下にない「物」は人間の尊厳と倫理感覚を人から奪い取ってしまいます。その結果、自分の行動を制御できない人になってしまうのです。
クリスマスは、「物」が氾濫する中で、「心」を取り戻すことがどれほど大切かを思い起こす時です。2000年前、主イエス・キリストが、小さな村、べツレヘムの馬小屋で誕生なさることによってそれを示して下さいました。
人類の救い主イエス・キリストは当時、政治・経済・文化・教育の中心地だといわれていたエルサレムではなく、誰でも見過ごしてしまうような場所に、しかも飼葉おけの中に産声をあげたのです。主イエスの生涯はこのように貧しく始まりました。そして約33年後、エルサレムの郊外にあるカルバリの丘で十字架に掛けられ、地上での一生を悲しく終わりました。こうした厳しい始まりと終わりであったにもかかわらず、今では、主イエス・キリストを信じるクリスチャンが世界の人口の3割を占め、キリスト教会が近年世界各地で爆発的に多く増えているというのはどうしてでしょうか。
マタイの福音書によると、「山上の垂訓」と呼ばれる説話の冒頭に、主キリストは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と語られています。日本人ならば「貧しい心」という語感から、「僻(ひが)んだ心」や「卑しい心」を連想するかもしれません。しかし、旧約聖書では宗教的な理由から弾圧搾取された敬虔な信徒を「貧しい」者と表現しています。主イエスはこの用語を選ばれ、「貧しい心」と「天の御国」を直接関連づけました。実は、これがクリスマスの出来事の重要な意義の一つなのです。というのは「貧しい心」を持っている者でなければ、貧しく生まれた主イエスを見過ごしてしまうということです。驕慢(きょうまん)、傲慢(ごうまん)な心を捨てないと、救いのメッセージが聞こえてこないのです。自己中心で自己主張が強すぎると、最初のクリスマスを通して提供されている福音を見逃してしまいます。当然、十字架の死によって完成された主キリストの救いの業を理解できる筈はありません。主イエスを「貧しい心」で見いだし、素直な信仰で心に受け入れますと、そこに天の御国が創り出されるのです。やがていつかではなく、今あなたの生活が神の祝福で満たされた場所となるのです。
さて、貧しい羊飼い達が、
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2章11~12節)
という天使の御告げを聞いたのは、荒れ野で野宿しながら羊の番をしていた時でした。ありあまった物に、うずもれた生活の中では、神様の招きの声が魂に響いてこないかもしれません。案外、貧しい心にならざるを得ない荒れ野のような厳しい環境が、神様の暖かい愛のささやきを悟らせるようです。羊飼い達は迷うことなく
「さあ、べツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(ルカ2章15節)
と立ち上がり、救い主イエスを飼葉おけの中に探し出しました。貧しく生まれた主キリストを礼拝したのは、貧しい彼等だけではありませんでした。しばらくして東の国のエリートであった博士達が、高価な黄金、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を主キリストに捧げ、まだ幼子であった主イエスを礼拝したという記録が残っています。これも貧しい心を持たなければできない仕草です。
貧しい羊飼いや裕福な博士達に共通したことは、彼等が「貧しい心」の持ち主だったということです。救い主に出会うために必要なのは、「物」に執着しない素直な「貧しい心」になるということです。その「心」を取り戻し、「天の御国」即ち救いを自分のものとするために、今年のクリスマスを教会で過ごそうではありませんか。
文・北野耕一