宣べ伝える喜び

澁谷 友光 (青森キリスト教会)

しかし、信じたことのない方を、 どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ローマ人への手紙10章14-15節

2011年に起きた東日本大震災。その直後から始められた被災地の支援活動は2年半が過ぎました。被災地である岩手県の沿岸地域を、毎月のように巡りながら思うことは、「この震災が起こっていなければ、私は生涯の中でこの地に来ていただろうか」と言う思いです。震災自体は、決して起きて欲しくなかった出来事ですが、私は震災があったからこそこの地に導かれたし、主に遣わされていると受けとっています。

私たちの生涯は、造り主である主の御手の中にあります。主の御手の中で、その地に置かれ、その地に遣わされています。時には私たちはその全てを受け入れられないことがありますが、私たち一人一人を主の証人として用い、救い導きたい人々がいるからではないでしょうか。

2年半の支援活動を通し、多くの被災者の方々と信頼関係ができはじめています。「キリストさんだけは、本当に私たちを忘れず訪ねてくれている」と言う、被災者の方の声を聞かせて頂きます。お茶を一緒に頂く中で、いろいろな悩みや問題を打ち明けてくださいます。そして、ごく自然に祈りへと導かれるのです。祈らせて頂く方を見ると、頭を垂れて手を組み、目を瞑(つむ)って祈っているではありませんか。既に、神様を意識し思いを向けて、共に「アーメン」と唱和しているのです。次に会った時には、この前の祈りの答えを目を輝かせて教えてくださる方もおられるのです。

主から受けた愛を心から注ぎ、 言葉と行いを以(も)って福音を伝えるなら、救われる方々が必ず起こされると信じます。伝道に失敗はありません。

釜石AG支援センターまでの片道5時間の道のりは、賛美と祈りに満ちた素晴らしい主との交わりの時です。御言葉が示す「りっぱ」(良いことの知らせを伝える人々の足)とは、贖(あがな)いの御業を成し遂げられ今も生きておられる、主との交わりによって実現することなのでしょう。福音を愛し感動して、「宣べ伝える人」になっていこうではありませんか。

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