『塩狩峠』
~あほうになって生きる幸い
月刊アッセンブリーNews 第731号 2016/8/1発行より
『塩狩峠』の冒頭、少年信夫が鏡に映る自分を見つめ、死んだと聞かされている自分とよく似た「おかあさまって、どんな人だったのだろう?」と思慕の情を募らせている場面から始まる。
ここにはすべての人間の二つの根源的な問いがある。一つは「私とは何者か」という問いであり、もう一つは「私をご自身に似せて産んだ方」すなわち「神とはどんな方か」という問いだ。そして、これらの問いは、抜き差しならない恐ろしくせっぱつまった状況の中で、例えば信夫の場合、暴走する客車という状況の中で、自己の命をも投げ出して破滅に向かう命を救わんとする、そのような愛をも持つ者として神が人をご自分に似せて造られたということが、そこで証しされることになるのだ。
『塩狩峠』のエピグラフには、「一粒の麦、地に落ちて死なずば」とあるが、自分は一人、人生は一回限り。賢く損しないように生きねばならない、と考える。しかし作品終盤、信夫は「わたしはほんとうにキリストのあほうになりたいんです」と語っている。信夫は伝道師伊木一馬がキリストを「世にもばかな男」と紹介する説教を聴き心打たれるが、自分も「キリストのあほう」になりたいと思うのは、真にキリストに出会ってからだ。信夫は、「自分自身のように隣人を愛しなさい」という聖書の言葉と真剣に取り組み、給料袋を盗んだ同僚三堀を助けようとするが、却って頑なになる三堀が憎くなり苦しむ。それを通して信夫は、愛のない自分、三堀を罪人として見下していた倣慢な自分、助けてもらわなければ死んでしまう自分に気づいてゆく。そうして、そんな者を命がけで愛してくださるキリストに出会い救われた時、この最高に「あほう」な愛の方に似た者になりたいと思わずにいられなくなる。
「客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。」
これが『塩狩峠』の中核である。滅びに向かって暴走する客車と、そこに乗っているすべての人の命と魂と罪の重さが、一人の人によって受け止められ、担われたことで、暴走は完全に停止する。これはキリストの十字架の犠牲による救いの完全性を示している。
そして、その背後には綾子の実体験も隠されている。戦争が終わる日まで堀田綾子は上へ上へと走る列車の最後尾の客車だ、った。皇国民の錬成に命をかける軍国教師だった。しかし敗戦という峠で連結ははずれ、彼女は一人で暴走を始めた。誰にも止められない自暴自棄と絶望による滅びへの暴走だった。しかし、信じられないけれどもそれは完全に止まった。それは実感であったのだ。前川さんが命がけで私を愛してくれなかったら、イエスさまがその命を犠牲にして私を完全に受けとめてくださらなかったら、私は滅びていた。
だから、殉職時の永野信夫の年齢を、綾子はキリストが十字架にかかった年齢であり、前川の没満年齢である33歳時にした。そして信夫の死を見て人格が一変した「三堀峰吉」は、三浦の「三」と旧姓の堀田の「堀」から作られ、綾子自身を指しているのだ。
《寄稿者》
森下辰衛 Tatsue Morishita
プロフィール
1962年岡山県生。元福岡女学院大学助教授。
全国三浦綾子読書会代表。 http://miura-ayako.com/
三浦綾子記念文学館特別研究員。