月刊アッセンブリーNews 第718号 2015/7/1発行より

神的受動態 と 神の見えざる手

日本語には「行間を読む」という表現があります。表記されていない著者の意図を読み取ることを指しますが、聖書ギリシャ語文法の中にも字面に表れていないことを汲(く)み取る文法があります。今回は神的受動態(神学的受動態)と呼ばれる文法を見てみましょう。

 一般に、受動態は動詞の変化で表現され、意味が「〜する」から「〜される」となって、文の構造が変化します。その際に、「誰がそれを行うか(動作主)」が省略されることがあり、様々ある省略の理由の一つが、神的受動態と呼ばれる「動作主が神である場合」なのです。

 例えば、ローマ3・28は動詞 δικαιόω(義とする)の受動態 δικαιουσθαι(義とされる)が使われていて、「神」という言葉はギリシャ語本文には記されていませんが、「(省略された)『神』が人を義とする」ということを暗に意味しています。(図参照)

 神的受動態において「神」が省略される理由について、神の名をみだりに表記しないためだったと主張する人もいますが、新約著者にとって神が物事の背後で働かれる事は自明だったからだとも言われています。確かに、神的受動態と指摘される箇所は、文脈からも神が働きかけておられることが明らかな場合が多く、神を前提としていると言えます。文字どおり目に見えない神が生きて働かれていること(また、そのことが強調されている可能性)に思いを巡らせることで、私たちの日々の中にも、見えざる神の介入があることを感じることができるでしょう。

*参考
 他の神的受動態と考えられる箇所(一部)
  マタイ5:4 παρακληθήσονται(慰められる)、
  5:6 χορτασθήσονται(満たされる)など