月刊アッセンブリーNEWS 2018年2月1日号より
杉田キリスト教会(神奈川県)久保田 潔 Kiyoshi Kubota
今回は、まず福音書の中からキリストの宣教行動をたどって、現代において私達が伝道していくうえでの模範を学びたいと思います。
まず、主の宣教の特色はその行動力にあります。主の宣教範囲はカペナウムを基地としたガリラヤ湖周辺とユダヤとペレヤの地域の一部に過ぎず、その宣教期間は2年半から3年半足らずの短期間でしたが、主は足を棒にしてくまなく「巡り歩いて」宣教されました。
そして、その行動の原動力になったのは、人々の心の状態が「弱り果てて倒れている」のを「ごらんになった」その視覚の鋭さでした。さらに、主の眼にそのように見えたのは、主の心が「深くあわれまれた」という感情がみなぎり溢(あふ)れていたことでした。この「スプランクニゾマイ」というギリシャ語は、新約聖書に12回程出てくる言葉で、“はらわたが煮えたぎる”というような激情(げきじょう)的な言葉です。
福音書においては常にキリストの心を表すのに用いられています。〈事例:「良きサマリヤ人」「放蕩(ほうとう)息子の父親」「ツァラアトに冒(おか)された人の清め」「パンと魚の奇蹟(きせき)」「ナインの息子の蘇(よみがえ)り」等〉。主の心は救霊の情熱でまさに燃えたぎっていたのです。
私達が主の御足(みあし)の跡を継ぐ宣教という「霊的行動力」を与えられるためには、人々の内面状態を見る「霊的視覚」を持つと共に、何としても人々を神の救いに導きたいという「霊的感情に溢れる」(スプランクニゾマイ)心を持たなければなりません。
私が神学生の時に、「ブース大将伝」という本を読んだことがありましたが、救世軍の創始者であるブース大将が士官学校の卒業式の訓示で“私は2年間諸君を教えたが、出来るなら地獄の入り口に2日間吊つるしておきたい。そうしたら諸君は死に物狂いで伝道するだろう”と言ったくだりがあり、そのすさまじい救霊心に感嘆(かんたん)した事がありました。
もしも私達が心底(しんそこ)「来世」の存在を信じているなら、私達は家族や友人が地獄に行く事は決して望みません。労力を惜しまずキリストの救いを語るはずです。
伝道はすぐには実を結ばず、徒労(とろう)意識に苛(さいな)まれることがありますが、その時も人々の外面の活気を見るのではなく、その内面の「弱りはて、倒れている」姿に眼を留めて宣教の業に励みましょう。たとえ失敗に見えても、主はその経験を必ず生かして、次の機会に用いてくださいます。伝道の業は連続性のもので、失敗で終わることは無いのですから。
上記の聖言(みことば)の後に、「収穫(しゅうかく)は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(9:37、38)という、主のお言葉が続きます。
「働き人」になるということは牧師になることだけではありません。まず教会生活の中で主の労働者となり、さらに教会外の未信者のところに出かけて行って福音を伝える時、主と共に収穫を喜ぶ「働き人」になる事が出来るのです。