三浦綾子の作品から学ぶ信仰(10)

感激なきところに人生なし

  ~『愛の鬼才』の世界

月刊アッセンブリーNews 第743 2017/8/1発行より

先生をかく生かしめたものを

 『愛の鬼才(きさい)』は1982年6月号から1年余の連載中に1回休載している。連載が始まった82年5月に直腸癌が発見され、旭川赤十字病院に入院し手術を受けたのだ。絶筆(ぜっぴつ)になるかも知れないという思いを抱きながら三浦綾子はこの西村久蔵(きゅうぞう)伝に力を注いだ。かつて病床洗礼のとき、「どうぞこの堀田綾子姉妹を、この場において証しのためにお用いください」と溢(あふ)れる涙と共に祈ってくれた西村久蔵という原点に戻って、「先生をして斯(か)く生かしめたキリストを」確かめたかったのだ。

一人ひとりが物語る

 「永遠の命とは、永遠の人格のことである」という言葉があるが、西村久蔵に出会った人は「愛とは過去にならないものだ」ということを知った。「人々が先生について語る時、その語る人自身の胸は必ず熱くなる。火がついたように燃えてくる。」 そんな愛を体験した。自分の人生に於けるその出会いの意味を自らの言葉で語るとき、その物語は、それぞれの人生をも尊いものとしてくれるのだ。人が真の愛に出会った経験はすべてそうだ。

感激なきところに人生なし

 西村久蔵は中学4年の時に留年し、その年に洗礼を受ける。ある家庭集会で彼の心に事件は起きた。
 〈私、即ちこの西村という汚い罪人の犯せる罪や、心がイエスを殺したのだ、下手人(げしゅにん)は私であるという殺人者の実感、しかも、わが救い主、わが恩人、わが父を殺した恐ろしい罪をわが内に感じて、戦慄(せんりつ)いたしました。〉その晩、久蔵は布団を涙でぬらしつつ3時まで祈り、主イエスに詫(おわ)びした。彼の信仰の中心は、この罪の自覚の強さと、それに比例した救いの感激の強さだった。
 札幌商業で教えていたある日、久蔵は無言のまま、くるりと背を向けると、黒板に大きく、〈感激なきところに人生なし〉と書いた。「キリストが、この自分のために死んだのに、どうして無関心でいられるだろう」という思いが、久蔵の生き方を変えた。
 久蔵は、生徒と共に泣き、生徒を叱るのに自分の手を鉄のデレッキ(石炭ストーブの石炭を掻(か)く用途に用いる。火掻き棒)で打ちつけるという教師、何時出勤何時退社なんてない、誰が社長か分からない変な会社の社長(製パン・洋菓子店「ニシムラ」を経営)、頼ってきた人は絶対拒否しないので、いつも宿屋のようになっている変な家の家長になってゆく。利己主義を原理として闘争するこの世とは全く違う原理で営まれる、それらの場所は神の国のようであった。

私を通らなければ

 しかし戦後の久蔵は戦争に反対しなかったことの罪責感から、ー層厳しい献身の道へ進んで行く。それは「キリストの苦しみをも賜わる」ような生き方だった。久蔵は外地から引き揚げて来る人々のためにキリスト村建設に奔走し、江別太(えべつぶと)に入植(にゅうしょく)した。既に心臓の悪かった久蔵だが、「キリストだったらどうするか」という心で生きた。毎週金土日を病気見舞いや講演などのために捧げ、堀田綾子を見舞ったのもこの時期だった。そして1953年7月12日、久蔵は見るに耐えないほどの苦しみの後、その55年の生涯を閉じた。

 新約聖書には、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くこができない。」(ヨハネ14・6新共同訳)というイエスの言葉があるが、イエスを通って行くとはどういうことか。西村久蔵は、イエスを殺したのは自分だ、という信仰をもって、イエスのように愛して生き、イエスのように苦しんで死んだ。西村久蔵の生涯はイエスを通ってゆく道を体現していたのだ。

《寄稿者》

森下辰衛 Tatsue Morishita

プロフィール
1962年岡山県生。元福岡女学院大学助教授。
全国三浦綾子読書会代表。 http://miura-ayako.com/
三浦綾子記念文学館特別研究員。