『ちいろば先生物語』

 ~何としても神の言葉を聞き流すことがでけへんのや

月刊アッセンブリーNews 第745 2017/10/1発行より

 三浦綾子は『愛の鬼才』執筆中に直腸癌の手術を受けたが、それから2年後、直腸癌再発時に書かれたのが『ちいろば先生物語』である。「病弱でありながら、一日一日を火の玉のように生きた先生の、一番大切だったもの、そのものを私も今、病む者の一人として、しっかと見つめなおしたいのである」と前書きにあるように、それは榎本保郎(えのもとやすろう)のダイナミックな生涯の核心にある “聴従” の信仰と、神にとっては風邪を治すのも癌(がん)を治すのも大して違わないのであり、いかに状況が深刻でも神に信頼し神に従って生きるところには、次元の違うダイナミックな生き方があることを学び直すことであった。

 1925(大正14)年5月5日、榎本保郎は淡路島に生まれた。幼い保郎はすぐ隣の寺、長月庵に出入りし、真浄尼から釈迦出家の物語を聞き、お金や地位よりも、もっと大事なもののために身を捧げる生き方があることを知る。洲本中学卒業後は皇民(こうみん)教育を行なう熱血教師となるが、44年には入隊、生涯の友、奥村光林と出会う。幹部候補生の試験で宗教は何かと聞かれ、不利を承知でキリスト教だと答えた奥村の明るい笑顔に、保郎はかつて見たことのない光を見たのだった。

 満洲で敗戦を迎えた保郎は、愛国心も正しく生きる意志も崩壊した自分の弱さと罪を痛感する。帰国後、「浦上切支丹(うらかみきりしたん)史」を読み「切支丹(キリシタン)になる! 」と決意する保郎だったが、同志社神学部に幻滅(げんめつ)し行方不明となる。父 通に発見され帰郷、野村和子と出会った保郎は、京都円町(えんまち)教会で信仰を養われてゆくなかで、自分は乗り物としては下である子ろばと同じだ。「主の用なりと言われたら、愚図やけど、イエスさまを乗せてどこへでも行こ」と決心する。保郎が和子に求婚した手紙には「男子が十字架に上がらんとする時、女子は愛する者を十字架に押し上げる。そこにこそ崇高なる恋愛があるとぼくは思います」と書かれていた。

琵琶湖にて 写真提供・中村啓子姉

 和子と結婚し世光(せこう)教会を開拓。アシュラム運動に出会い、念願の会堂移転を果たして順風満帆(まんぱん)の61年、保郎は、教会の主は榎本でなくキリストだと考え 世光教会を去る。今治(いまばり)に赴任した保郎は肝炎に苦しむが、「列王記上」の、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」という神の言葉を自分へのものとして聴き、ベッドから出てアシュラム運動に献身することを決意し、今治教会を辞任。近江八幡にアシュラムセンターを開設し活動に専念する。

 77年7月アメリカへの飛行機内で吐血し、ロスアンゼルスで保郎は召された。この渡米前に保郎は和子に語った。「なあ、和子。…人問、走るべき道のりいうものが、定まっとるんやないやろか。ぼくの命は、大事にしたところで、あとどれほども残ってはおらん。…主がお入り用いう言葉を聞き流して、何カ月か命を長らえるより、キリストをこの背にお乗せして、とことこ歩いているうちに死ぬほうが、ぼくにはふさわしい。本望や。ぼくはなあ、何としても神の言葉を聞き流すことがでけへんのや」

 和子は、保郎が階段を這うように上るのを見てぎくりとした。和子は前垂れで手を拭きながら、同じ階段を駆け上がった。 保郎の後から、妻和子も十字架への階段を駆け上っていったのだ。三浦綾子は、和子をはじめ、保郎と共に生きた人々を生き生きと描いた。榎本保郎という一人のアホが駆け抜けたときに、多くの人々を巻き込みながら生まれた大河を物語絵巻として描きつつ、その背後におられた神を示そうとしている。

《寄稿者》

森下辰衛 Tatsue Morishita

プロフィール
1962年岡山県生。元福岡女学院大学助教授。
全国三浦綾子読書会代表。 http://miura-ayako.com/
三浦綾子記念文学館特別研究員。