信徒のための伝道の神学 No.3

月刊アッセンブリーNEWS 2018年3月1日号より

杉田キリスト教会(神奈川県)久保田 潔 Kiyoshi Kubota

聖書の言葉

「あなた方は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施ほどこし、いっさいのことを守るように教えよ」
(マタイによる福音書28章19、20節 抜粋)

 驚くことに、「伝道」ということが強調されたのは19世紀に入ってからで、それまでの教会は、“全ての人間は神によって救われるか滅びるかは、生まれる以前から定められている”という極端(きょくたん)な予定説に影響されて、伝道に対する熱意は薄(うす)かったと言われています。

 しかし1888年に『伝道の業、その原理と実践(じっせん)』(アーサー・ピアスン著)という本が出版され、その書中の「教会が福音を未(ま)だ救われていない人々に伝える事を失敗している限り、教会は主の御命令に背いている事になり、かくて霊的生命は乏(とぼ)しくなって使命は失われ、灯台(註;教会)は除き去られる危険に陥(おちい)るだろう」という言葉に、教会は伝道の大切さ、必然さに目覚めたと言われています。

 冒頭(ぼうとう)の聖言(みことば)は主の昇天直前の「大宣教命令」といわれるもので、その内容は
①「いっさいの権威(けんい)」~すべての人に及ぶ主の権威
②「すべての国民」~伝道の対象はすべての人
③「いっさいのこと」~神の言葉による教えのすべて
④「いつも共にいる」~すべての所に在る主の臨在
という4つの「すべて」(「パス」=英語のall)から構成されています。

 私達はこの主のご命令により、すべての主の権能と臨在の下で、すべての人間に宣教することこそが御旨(みむね)であって、文字通りすべての事を「伝道」に直結させなければなりません。

 しかし、私達は伝道に対して消極的な気持ちになりがちです。その理由としては、
ⅰ)口下手(くちべた)で話をするのが苦手 
ⅱ)聖書知識が乏しくて質問に答えられない 
ⅲ)話し出す勇気が無い 
ⅳ)断られたら友達を失う 
ⅴ)伝道対象者が居ない
等の言い訳が湧(わ)いてきます。

 かつての私も少々吃(ども)るので伝道が苦手でした。当時の教会は日曜夜の伝道会の前に、2か所の駅のどちらかの方面で路傍(ろぼう)伝道をしていたので、私はいつも路傍伝道をしない方の駅から教会に出席していましたが、ある時、間違えて路傍伝道隊と出くわしてしまい、そこで無理やり証(あか)しをさせられてしまいました。それはシドロモドロの証しでしたが、不思議に、心が何か爽快(そうかい)な気持ちになりました(信徒達の“久保田さん、今日の証しはよかったですよ”とのおだてに乗っただけかもしれませんが)。

 以来今日まで、福音が受け入れられた伝道の喜びを数多く体験してきました。失望することもありますが、伝道の喜びは何物にも代えがたいものです。結果によらず御言葉(みことば)を語れた感謝の思い、救いに導けた喜びの経験は、私達の信仰生活を限りなく豊かにし、強くし、そして成長させます。

 やがて神の前に出た時、主がため息をついて“お前には、あの者にもこの者にも私の福音を語って欲しかった。その力を与えていたのに”と言われないようにしたいものです。

 最後に、私が中央聖書神学校の伝道論の授業でよく引用した中国の指導者 鄧小平(とうしょうへい)の言葉を紹介しましょう。“白猫でも黒猫でも鼠(ねずみ)を捕る猫が良い猫なのだ”。鄧氏は経済政策の言葉として使いましたが、私達は伝道の言葉として、「信仰歴、聖書知識、奉仕経験、雄弁(ゆうべん)さという“毛並み”はどうでも、人を救いに獲得(かくとく)出来るクリスチャンになりたい」ということです。