月刊アッセンブリーNEWS 2018年6月1日号より

杉田キリスト教会(神奈川県)久保田 潔 Kiyoshi Kubota

聖書の言葉

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない」
(Ⅰコリント12章3節)

 かつて、結城(ゆうき)教会に長島ツル師という、その生涯(しょうがい)を日本のリバイバルの祈りに捧(ささ)げ、アッセンブリー教団の多くの牧師達に多大な霊的な影響を与えた牧師がおられました。

 私にとっても終生の師匠(ししょう)ともいうべき方で、日本のリバイバルの必要に目覚めさせられて、今日までリバイバルのために祈ってきた多くの器達の末席(まっせき)に加えられています。

 今日「リバイバル」という言葉は一般的には「古いものが甦(よみがえ)る」ことに使われ、キリスト教においては“大救霊”という意味で解釈されていますが、本来は“覚醒(かくせい)”という意味の言葉です。

 キリスト教史を見ると、信仰の復興のために用いられた、ジョナサン・エドワーズ、ウェスレー兄弟、ブレイナード、ホイットフィールド、フィニー、ムーディー、ビリー・グラハム等々のリバイバリストと言われた器達の名が浮かんできます。

 日本における伝道上の問題は、日本人にとって聖書の背景になっているユダヤの歴史や言語、風俗習慣等が福音理解を難しくしている側面がありますが、さらに大きな問題は、信仰を持った後の持続が困難であることです。ある情報によれば、日本人クリスチャンの信仰寿命は3年前後で、信仰を持っても様々な問題で教会から離れてしまう元信徒が多いというのです。また、信仰深い信徒達の信仰行為も教会内では発揮されても、対社会の中で積極的に未信者を教会に導く力になっておらず、むしろ少々難有り信徒のほうが未信者との接触度が強い分、教会に導いてくる確率が高いという現象さえあるようです。

 ですから、現代のキリスト教の最大の課題は、まず教会と私達信徒がリバイバルされることではないでしょうか。英国の説教者ロイドジョンズはその著書の中で、「リバイバルとは教会で起きるもの、信者の間でまず起きるものである。何かが“生き返る”ことであり、その命を覚醒させ、活気づかせるものである」(『リバイバル』より)と述べています。

 聖霊によるリバイバルの御業(みわざ)は教会・信徒から始まり、必ず未信者の救いに至ります。

 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということが出来ない」ということは、聖霊が臨んでくださるなら、どのような人であっても、どのような状況下であっても、「イエスは主である」と告白することが出来るということです。

 聖霊のみが信者・未信者に関わりなく、その心に
(ⅰ)キリストを示し、
(ⅱ)罪の自覚を与え、
(ⅲ)十字架の贖(あがな)いを悟らせ、
(ⅳ)悔い改めと信仰告白をさせ、
(ⅴ)信仰を持続させる力をお持ちです。

 今日まで積まれてきた神の器達の祈りに答えて、神は必ず近々に日本にリバイバルを起こされるでしょう。その時、おびただしい数の人々が教会に信仰を求めてくるのに対応して的確に信仰に導けるのは、聖霊によってリバイバルを経験した信徒達だけです。

 「時が良くても悪くても、御言葉(みことば)を宣(の)べ伝える」(Ⅱテモテ4 : 2)信徒になり、今は何も起こっていないように見える教会の片隅で、現在教会から離れている元信徒達の信仰回復(リバイバル)と、未信者の信仰の開花のために祈ることから始めましょう。

「リバイバルのために祈る時間を取っておきなさい。他の何よりも多くの時間を充(あ)てるようにしなさい」
(ロイドジョンズ)