月刊アッセンブリーNews 第718号 2015/7/1発行より
「レゴ―」◄►「エレゲン」
料理の隠し味は、隠れていながら味全体を引き立てる小粋な存在ですが、聖書ギリシャ語の動詞にも隠し味のような微妙な違いを表わす手段があります。その違いは、時として微(かす)かかもしれませんが、聖書の記述をより繊細に描き出す役割を果たしていて、語形変化という動詞の変化に伴って表現されます。
例えば、マルコ5章の出血の止まらない女性の話で、28節には「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」とあり、「と思った」と訳されている動詞は、λέγω(レゴ―)の未完了形 ἒλεγεν(エレゲン)で書かれています。現在形・未完了形には一回限りではなく、反復して行われたと理解される場合があって、ここでは女性が繰り返し「そう思った」ということになります。そしてその内容は、「可能性があるが実際はどうなるかはわからない」時に使われる条件文で書かれていて、「触れれば癒(いや)される(可能性がある)」というものです。女性が確信をもってイエス様の服に触れたというより、まるで自分に言い聞かせながら、その行動に必要な勇気と信仰をかき集めているような様子がうかがえないでしょうか。
「隠し味」から読みとる女性の姿、すなわち、かき集めた信仰と行動を通して癒された彼女の姿を見る時、最初から信じぬく「立派な信仰」がなくても、勇気を出して信仰に立つという励ましを受け取ることが出来ると思いませんか。
*参考
反復的な意味と考えられる他の箇所(一部)
・使徒2:47 προσετίθει (救われる人々を)加え
・Iテサロニケ5:17 προσεύχεσθε 祈りなさい
執筆者:平松 厳 Gen Hiramatsu |桶狭間キリスト教会