学生と先生の対話でわかりやすい ♪
私はどのようにして救われるのか
-宗教改革の重要テーマ-
今回は16世紀の宗教改革と大いに関係があるよ。
待ってました!いよいよ宗教改革ですね!
随分盛り上がっているなあ。確かに宗教改革は教理の歴史にとって大事だ。とりわけ信仰義認は宗教改革の中心的テーマだしね。
宗教改革者と言えばマルティン・ルターが代表的だ。でもルターは最初からプロテスタント教会を作ろうとしたわけではないんだよ。「聖書のみ」と言ったが、それまでの教会の信条や教父たちを無視したわけでもない。事実、ルターはアウグスティヌスから多くの影響を受けている。私たちプロテスタント教会も教理の歴史の上に成り立っているということだ。
2008年8月1日発行 通巻635号
「神の義」の再発見
最初はルターも当時の多くの人たち同様、神の恵みももちろんあるが、人間の努力によって神に受け入れられる条件を満たす必要があると考えていた。
ところがどうしても自分が救われている確信がもてない。彼が初めてミサを執行する栄えある日でさえ、自分は神にとても近づけないという強い恐れにとらわれてしまったそうだ。それだけ罪を自分の現実として感じていたのだろう。
アウグスティヌスと似ていますね。
ルターはアウグスティヌスの著作に触れ、人間は全く堕落していて自分で自分を救うことが不可能だと確信していった。
そしてローマ1章17節「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」にぶつかった。彼は「神の義」を神が人を罰する義として理解していた。とても神の義に見合う者になれない。だから「神の義」を憎んでいた。ところが大学での聖書講義のために聖書を学び解釈する中で、「神の義」とは神が罪人に恵みとして与える義であると理解するようになったのだ。これが「塔の体験」と言われる大転回だよ。
「信仰のみ」の信仰とは
「神の義」の理解が変わると同時に、信仰の理解も変わった。それまでは、主に信仰とは教会の教理に知的に同意することと考えられ、救われるための初歩的段階と思われていた。しかしルターは、信仰とはキリストの十字架を自分のこととして受け入れ、キリストに信頼することであり、信じる私をキリストと結びつけるものだと主張したのだ。そしてこの信仰によってのみ義と認められると教えた。信仰の性格と位置づけにも転回が起こった。
ルターの「義認」とカトリック教会の「義認」
でもこのときまで教会は義認ということを知らなかったんですか?
いや、義認という教理はあったよ。でもアウグスティヌス以来、カトリック教会は、義認とは「義と宣言される」ことと「義となっていく過程」の両方を含むと教えていた。義と認められるプロセスと言ってもいいかもしれない。でも、ルターは同士メランヒトンと共に、義認とは「義と宣言される」ことと聖書から主張した。
ルターの特徴は、義と宣言されること(義認)と義とされること(再生あるいは聖化)を区別したことだ。義認によって、人はまだ罪人であるがすでに義人であると確信をもつことができ、神との正しい関係にとどまることができるわけだ。ルターはアウグスティヌスを超えて「信仰者は同時に義人であり、罪人である。」と言うことができたわけだ。ルターとカトリック教会の違いをよく理解してくれたまえ。