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教団ニュース・アッセンブリー 1978年2月1日発行 通巻269号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

”回心と聖霊のバプテスマ”


 ウェングラー先生がアメリカに帰国されての留守の間に来られた宣教師は、ハリエット・デスリージ先生と言われて、非常に日本語の達者なお方でした。

 以前に保母学校の教師として働いていた方で、米国にいる時に聖霊の体験をされ、すばらしく信仰に燃やされておられました。先生はかつての教え子二人の女性を八王子教会に連れておいでになったのです。このお二人が山路先生、菅本先生でした(この方々は今は皆、天に召されてしまいました)。この方々によって八王子教会の内容はすっかり変りました。田舎者の私にはただ驚きだけでした。そんな折にウェングラー先生のもとで家事手伝いをしていたお琴さんも千葉の実家に帰ってしまいました。
 こんな事から人を見過ぎていた私は教会に遠ざかってしまいました。

 しかし自分なりの理屈はありました。即ち信仰は拾てていません、毎日祈っています、聖書は読みます等と…。だがキリストの体である教会から離れて心に喜びがある筈がありません。私の心は日増しに渇いて苦しみ始めました。昔の人が苦しむ事の表現に、真綿で首をくくるようだといいましたが、その時の自らの状態はそのようでありました。



 忘れもしません大正十四年二月一日、真暗な夜道を教会に向って馳け出しました。もうこれ以上耐え切れない気持で一杯でした。それも表通りがもどかしくて裏通りを選んで馳けていきました。ある所までくると、小学校の校舎と酒造の倉庫の間を通らなければならないのです。魔物のように建っている二階建校舎、暗い真暗い酒倉、私はしばらく立ちすくみましたが、心が忙しくていっときも延せない思いで息を呑み、目をつむってこの暗い道を一気に馳け抜けたのです(この時の思いは今日まで私の心にまざまざと浮んできます)。思いは”早く教会へ“ ただそれだけでした。今思えばこのように導かれたのも、教会で祈っていて下さった、祈られていたからに他なりません。この祈りによって神の迫りが与えられたのです。この他の何ものでもありません。


 「我らの神は怒ることおそく恵みと憐れみに富み給(たも)う」のです。教会に着いて驚きました。マリヤ先生をお迎えしての特伝でした。その夜のメッセージは創世記二二章のアブラハムに対し神がその独り子イサクを献げよ、と仰せになったお話でした。
 その要旨は、年老いたアブラハムにとってかけがえのない一人子イサクを神は燔祭(はんさい)として捧げなさいと申きれた。「わたしはあなたを立てて多くの国民の父とした」(ロマ四・十七)と記されてある通りの彼は、この神、即(すなわ)ち死人を生かし無から有を呼ぴだされる神を信じた。彼は神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ栄光を神に帰し、神はその約束された事を、また成就することができると確信した。この信仰でアブラハムは何のためらいもなく神の示された場所に祭壇を築き、薪(まき)を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上にのせたが、神はこの信仰を見たもうていると…。




 このお話のあとでマリヤ先生は言葉を強めて、神はあなたの心のイサクを求めておられる。あなたのイサクは何ですか、お金か、名誉か、人か、あらゆる面からあなたのイサクを神は求めておられる。イサクを、イサクを。私は心さされてお話の終る前に恵みの座に急ぎ出て神の前に悔い改めました。



 私はこの集会を通して新しく生れ変りました。そしてその年の九月十七日夜日曜日のタ拝終了前に聖霊のバプテスマを受けました。感謝がいっぱいで喜びに満たされて暗い夜道をこおどりしながら一里の道を家に帰ってゆきました。

坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。