※PC上での文字大きさは、ブラウザの「ズーム」機能で調整してください
本文縦書きが、表示されない場合は、ページを再読み込みしてください。

 私の伝道生涯において、甲府市での神より賜った数々の恵みの経験は、絶えず私に直面する様々な困難な出来事の中で私に勇気を与え、神こそは真実であるとの確信を与え、私を祈りへと導いてくれました。



 甲府を離れた私は、ウェングラー先生の御都合で、一時東京の蒲田で伝道する事になりました。当時両親が川崎に住んでおりましたので、川崎から蒲田に家さがしに歩いたのでした。昭和十年。その頃の蒲田は旧蒲田より新たな町づくりを広げつつある時代で、駅前などは畑だったと思われる所に、店作りの家がボツボツと新築しつつある頃でした。





教団ニュース・アッセンブリー 1979年9月1日発行 通巻288号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

『蒲田の日曜学校』

 私が借家さがしに歩いているとき、一軒の帽子屋の店の前に来ると私の心は異状な事を感ずるのです。それが何であるかは私にはわかりません。各所を歩き廻っても私はなぜか又帽子屋の前を通るのです。そして私の心は不思議な異状さを感ずるのです。幾日か後に見つかった家は実に奥まった住宅区域の静かな家でした。この家に引越してから気づいた事は、あの帽子屋から遠くないという事です。私は神様があの家のために何か働こうとしている事に気づきました。それから早速帽子屋に近づく機会を握るために店の前を通るのです。



 気づいて見ると、何となく活気のないうす暗いお店で、お客も立寄っていません。ある日、奥さんが帽子の手入れをしている足もとに猫の親子がたわむれているのを見て、今だと思い、挨拶をしながら、「お宅の猫ですか、私は猫が大好きなのです。少し猫と遊ばせて下さい」と頼みましたところ、ヘイ!と言ったきりで、田舎者の私には、そのあいその無さ過ぎは驚きでした。でも、あの家へのキッカケが出来たのです。神様は何かして下さると信じました。翌日もその翌日も、「猫ちゃん見せて下さい」といって、帽子屋に行きました。その内この家に子供が四人居る事がわかりました。今度は子どもに近づきました。こんなことを繰りかえしているうちに、奥さんが幾分心を開いてきたことを感じました。



 さて私の借家の持主は海軍大佐で、旧住居を四軒の貸家に作り替えてその内の一軒を私が借りたのです。二階が二間で下が二間でした。家主酒井様の家作に住むと言えば大ていの人は教会の住所がすぐわかるのでした。




 さて私は帽子屋の奥さんに伝道を始めました。子供の集会の準備も整えて、日曜日の朝、子供たちを呼びに行くために太鼓を持ち立ち上るのですが、なぜか困難を感ずるのです。こんなはずではないと、自分に鞭打つこと幾回か、でも神様は助けて下さって、太鼓を打ちながら大声で子供に呼びかけて子供集会の案内をするのですが、どの家も門を閉ざして出て見る人もないのです。少しお店のある通りに出ると、人々は朝の町を往来しています。私を見ると人々は、「あれ何、朝鮮飴屋?」 ですって。長袖の着物を着た朝鮮飴屋があるものか、と私は心の中で思いました。教会に引き上げて来ると、帽子屋の男の子と女の子の二人だけでした。私は水の引いた後のような気持で、ぼうぜんとしましたが、そのとき神様は、はじめの人はアダムとエバの二人だけであったことを、私の心に示して下さいました。



 私は御霊に助けられて、記念すべき日曜学校を蒲田で始めたのです。二人の子供は次週の日曜学校には喜んで近所の友だちを大勢連れて来ました。日曜学校は日曜ごとに子供が多く集り、二ヶ月後には六畳と四畳半の二間は一杯になりました。




 夜の集会には、帽子屋の奥さん一人だけが来ました。この奥さんの主人は、店が思うようにならないのでヤケになり、気晴しにクラブに行った事が病みつきになり、勝負事に熱中し、お金のある間はクラブに泊り込み、お金がなくなると家に帰って一日でも二日でも寝ていて、お金が少し出来るとクラブに入りびたって帰りません。これが二年も続いて今は生きて行けない状態で、奥さんは子供四人と自殺する決心をして、その方法を考えていた時に、私と出会ったのです。





 奥さんは、神の愛、イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いのみわざを知った時に、心から悔改めて、主こそ私の救主と信じて受入れたのです。この人は塚田さんといって、救いを経験すると心に光を受け、別人のごとくに明るくされ、神に望みを持って夫の救いのために祈りました。神様はその家族の生活の中にも不思議な業を下さいました。



 そんなある日、この主人はクラブで脳いっ血で倒れ、医者は首を振るだけで、もし運よく生きられたとしても口もきけず寝たきりでしょうとのことでした。奥さんはこの最悪の出来事の中で、「これは神様が、お父さんの上に働いて悪しき道から救出して下さる手段です」と言って熱心に祈りました。教会に集る人たちも共に祈ったのです。



 神は信じる者を恥かしめなさいませんでした。約束のみごとばのごとく、塚田さんは一ヵ月程で起き上り、二ヶ月頃には教会に出席し、路傍伝道では以前に遊んだクラブの前の道で讃美の後、自分の救いの証しと癒しの証しをしたので、人々は驚きました。親子自殺を計画していた家を神様は知って、神様が働いて下さったのです。その後この家は祝されて、主人は家業に励み幸せな家になったのです。




甲府を離れた私は、ウェングラー先生の御都合で、一時東京の蒲田で伝道する事になりました。当時両親が川崎に住んでおりましたので、川崎から蒲田に家さがしに歩いたのでした。昭和十年。その頃の蒲田は旧蒲田より新たな町づくりを広げつつある時代で、駅前などは畑だったと思われる所に店作りの家がボツボツと新築しつつある頃でした。

坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。