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教団ニュース・アッセンブリー 1979年12月1日発行 通巻291号
《福音版・朝ドラ!?信仰生涯の物語》

『ウェングラー
  先生のこと』

ジェシー・ウェングラー師

 昭和十六年の六月ウングラ丨先生は心臓で倒れ三鷹の家でしばらく寝ておられ教師が交代で見守りに来られましたが暑さがきびしい夏でいかんともならず相談の結軽井沢のマンロ丨病院に移転する事になりマリヤ先生と私が付き添て寝台車で軽井沢に行き入院しました七月八月と長い入院でしたその間において銀行のお金が敵産管理という名目でおさえられたのですこのシクで先生は熱を出し夜は寝れず困りました



 八月の終り頃に退院をして先生が御自分の持ている軽井沢の家に帰て来ました九月になると私は八王子に土曜と日曜日帰て来るのです日曜日のSSと礼拝のためです信者達もよく教会を守て下さいまし月曜日には軽井沢に行くのですメイドさんがおりますが私の帰るのを先生は待ているご様子でした当時は九月ともなると賑やかだた商店街はみな引上げて店は張つけとなり外路灯は消されて全くの暗黒の町でした八王子から軽井沢に着きましたのは夜でした下車する者はただの二三名だけでこの降りた人達は土地の人びとで足なれた道をスタスタ行くのです私は駅頭でま暗い道を見て足が前に出ませんでし





 先生が私の帰りを待ていると思うと心はあせるのですが足がどうする事も出来ませんすると横合いから人の足音がして私の行きたい方向に歩いて行きま早速大声で同行を頼みその人の後について町に出て旧軽井沢に近い愛宕山の先生の待つ家に帰りました先生はアカアカと電燈をつけて玄関先で腰かけて待ていました足音をきくと坂本さと呼ぶ声は人けのない別荘つづきの林の中にひびいてきましたどんなにか私を待ておられたかがわかりました病気上りで心が非常に弱かたのです病院も軽井沢を引上げましたので十月初旬に先生も三鷹に帰る事になりまし
 昭和十七年の六月敵産でおさえられた財産をかい除される事を願いに大蔵省に先生と私は暑いあつい夏の盛りを週に二回通い続けたのです神様は産管理課の村瀬事務官という上部の方の心に働いて下さ直接お会いして御相談する事を許され敵産かい除が許されたのです病気上りの先生にとりに幸いでした神様の助けを心から感謝しました中立国のスイスの大使館員の話では敵産かい除に与かたのは先生一人だたそうですアメリカ大使館が引上げた後は中立国が事務を扱ていたのです
 昭和十八年夏には戦争が事実になるらしい噂はもぱらでした宣教師達は米国に引上げた方が多かたのですその年の十一月の感謝祭の日先生は六人の友達を三鷹の家にお招きする事にしてその準備を私も手伝いました物資は底をつく程の不足配給の品さえ段々と少くなてしまう毎日そんな時に神様はお肉のかわりにマグロのドテ(マグロの大切り)を与えて下さいましたこれをビフテキのように焼くのですマグロと共にガ芋人参玉ねぎその頃にしては珍らしい程買えました八王子の店がングラ丨先生の為に同情して売くれたのでした
 当日三鷹の家で料理にかかろうとするある宣教師が顔色を変えて飛んで来日本とアメリカと戦争が始まりま大使館から早速次の船でアメリカに引上げよとの命令が来ましたと部屋にも上らず玄関で帰てしまいました
 他の方々は電報で帰国の報らせでした先生は呆然としておりましたところヘ大使館から次の船で帰国せよとの命令が来ました
 先生はその報らせを握たまま立ちすくんでいました窓から空を見たまま十分二十分三十何も言いませんでした何事かとお聞きする事も出来ませんでしたしばらくして先生は深い決心の色を面に現して私は国ヘ帰りません神様が共に居て守て下さいますと言いきのです
 そして重い空気の毎日だしばらくぶりで第一の帰国船に乗らなかた宣教師と共に祝い楽しむ心が言いようのないほど重苦しい感謝祭となてしまたのですその頃には珍らしい御馳走も砂をかむ思いのテ丨ブルでした
 先生はいつも私は日本の救霊のために祈りますと言い続けていましたその神からの使命感がこのような重大な出来ごとの中一人日本にとどまたのだと私は思い先生の主の前での素晴らしい有り方を教えられまして心から尊敬しております



坂本キミ師(1903年~1989年)

坂本 キミ先生

第2次大戦前から八王子を中心に、甲府および蒲田などで、熱心に伝道をなされた「生粋(きっすい)のペンテコステの偉大な伝道者」(弓山喜代馬師談)です。