中高年をいきいきと(2)

2002年 2月1日発行 通巻第557号

Ⅱ.教会に見る中高年の生き生きライフ

-自分が神に必要とされている-

《執筆者:アッセンブリー新潟キリスト教会 土屋 潔》


  主がたてられた教会に対して、キリスト者には課せられた責任があります。その一つは福音宣教という大使命の中での「教会の継続と発展」です。継続とはみ言葉に基づくところの純粋性(どんな時代でもみ言葉を割引かない。即ち ー あなたこそ、生ける神の子キリストです。マタイ16:16~)であり、発展とは福音宣教の拡大(地に満たす。|全世界に出て行って、すべて造られたものに福音を宣べ伝えよ。マルコ16:15~)です。

Vol.2
その実現のために教会は四つの柱「礼拝、宣教、教育、交わり」によって支えられているのです。

 とくにこれらの柱の中でも教育および交わりが教会の継続に深くかかわっており、この面が充実してこそ宣教という発展が望まれていくのです。そしてこれらの総括として礼拝がおかれているのです。即ち、老若男女・信者と求道者が一体となって礼拝を捧げていくことを神は期待しておられるのです。

 ところで、各世代にはそれぞれの働き・役割というものがありますが、その中で中高年に与えられている役割は何でしょうか。また前述した四つの柱ではどれを特に担う必要があるのでしょうか。中高年は社会の中では、当然、第一線で部下を引張っていく立場にありますが、他方では管理者として部下を教育(仕事に通用する者として仕立てていく)することも大きな責任です。なぜなら、彼らが経験し学んだ様々な事柄を継承させていくことが会社の存続(継続)と利潤追求(発展)に繋がっているからです。

 この会社という社会での中高年世代の役割は、教会の中での役割と同様とも言えるのではないでしょうか。人は、神から与えられた計画とその世代に与えられた計画の両方があり、その計画に応えていくときに生き生きとした歩みがかなえられるのではないでしょうか。

 いつまでも ”私がやらねば” の強い意識の下で先頭に立ち続けることは、数年というスパンでは良いのかも知れませんが、長期にわたる流れの中ではむしろ弊害にさえなりうる危険性を有していることもあるのです。

あなたの所属する教会には少年期並びに青年期に入っている兄姉は居られないでしょうか。

 本来、教育とは教える面と育む(引出す)面があり、このことができるのは経験豊富な当世代だけです。ただ、教会の中での教育となりますと単にSSでの奉仕と言うことになってしまうきらいがありますが、それにとどまらず、もっと大局的見地(牧師と同じ視点)からの育成が求められています。

 聖書の中に「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」 (エペソ4:15-16)組み合わされるには、ご聖霊の働きによるのではありますが、人間側とくに教会の担い手である中高年によるところも大きいのです。この世代が体(教会)を成長させていくのだ、という思いと願いをもって長期スパンでの「今」を捉え、かっ、弱いものに覆いをかけ、かばうような愛・期待しつづける愛をもって教会の中で臨んでいくときに、あなた自身がまた教会自身が活性化され新しい日を迎えることができるのです。

私たちキリスト者の第一の務めは、主のために熱心なる者(クリスチャン)です。 社会での職業はその次であります。

 しかし残念ながら、日本の多くのキリスト者は社会の中だけでその力を放出されてしまってはいないでしょうか。加えて、教会も彼らを生かしきれていないのではないでしょうか。

 社会で力をそがれ、疲れ果て辛うじて日曜に礼拝に出席し、或いはSS等の奉行をしている場合が多いのですが、ここは一つ自分の意識改革を成し遂げたいものです。自分の存在が教会において、さらに主の大いなる計画の中でどのような意味を持つのかを照査してみるのです。もし、 ”自分、だけはとくに厳しい状況で大変なので教会のことまでとても” と言ってしまったら勝負はついてしまいます。しかし ”大変だけど自分が神に必要とされているなら” と踏みとどまるならば、そこに大いなる祝福が満ちてくるのです。