《福音》恵みのおとずれ 1996年4月号

今年の年賀状に「神は見て、ぞれを良しとされた」と、聖書のおことばを記しました。

 天地創造の業をなされた神は、その都度、結果に対し笑顔で、微笑(ほほえ)んでうなずかれました。この一年、神さまと私の係わりにおいても、斯(か)く在(あ)りたい、との願いがあったからです。微笑みというと昔から「笑う門には福来る」という諺(ことわざ)があリますが、ハッキリものを言わないで、ただニヤニヤ笑っているのではなく、日常生活のなかでその場の雰囲気を和らげ、お互いのコミュ二ケーションを進めていく上で欠くことのできないのが、微笑みです。やさしいまなざし、にこやかな微笑みです。

 先日、私の所に大変笑顔の美しい婦人が来られました。一見、悲しみも苦しみも何もないような、幸せ一杯という風貌でした。でも話を伺っているうちに、想像を絶する苦しみを負って生活して居られることを知りました。誰だって重荷があるものです。娘のYちゃんは現在、中学3年生、生後3ヵ月で脳性マヒを知らされた母親は、日を重ねる毎に、周囲の子供と比較し、幾度となく2人で死ぬことを選ぼうとしたことか知れない、しかしYちゃんが5才になった時、上からの力を戴き、生きることに目を転じ、娘と共に生かされている喜びを知りました。現在Yちゃんは車椅子に座ったままです。訪問する時、私は腹話術人形を連れて行きます。私と人形は手を差出し、話かけると声にならない声で、目で笑って応えてくれます。体をよじらせて、体全体で笑って応えてくれるのです。

 植物が太陽の光を求めて伸びるように、人の心もまた、太陽のようなぬくもりと思いやりを求めて、生きてゆくことができるものです。微笑みは次の微笑みを生んでいきます。

 イエスは言われました。「いま泣いている者は幸いです。…いまに笑うようになりますから。」

文・渋沢清子