《福音》恵みのおとずれ 1997年6月号
高校一年生の秋の頃、私はアンダーソン先生との出会いを通して、はじめてバイブルクラスに出席しました。そこで先生は英語で聖書のお話をされ、先輩の男子生徒が通訳してくれました。私は通訳する先輩の語学力にもびっくりしましたが、話の内容にはもっとびっくりしました。イエスという方が海の上を歩いたり、嵐にむかって「静まれ、黙れ」 と命じて静まらせたり、5つのパンをふやして5,000人の人々に食べさせたなどという奇想天外な話でした。そしてイエスは神だというのです。
私の尊敬するこの素敵な先生がどうしてこんな変な話をするのかなと思いました。 私は神ということばに潜在的な嫌悪感を持っていました。「神はいない。弱い者が逃げ場として勝手につくりだした幻にすぎない。」と私は思っていたのです。 馬鹿馬鹿しくて聞くに耐えられないような気持でしたが、なぜかアンダーソン先生の人格の力に引きつけられて3年間通い続けてしまいました。聖書もいつしか読むようになり、生涯忘れることのできないような言葉に出会ったのです。
「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」
この言葉を読んだ時、私は電気に打たれたような衝撃を受けました。こんなに美しく、完全で大きな言葉は私たちの世界にはないだろうと思いました。この言葉はどこから来たのでしょうかとこの言葉にとらえられて探していたら、馬鹿馬鹿しいと思っていた神に出会うことになったのです。
文・渋沢清子