《福音》恵みのおとずれ 1997年8月号

私が大学4年生の夏休みの時のことでした。母方の祖母の墓参りに、親族が集まって、皆久しぶりの再会に喜びにぎわっていました。小さい孫たちは走りまわっていました。でも一人祖父だけが遠い空の方を見つめて立っていました。私は祖父の心を理解する力などありませんでしたが、寂しさが伝わってきました。私はその頃、イエス様を信じて自分の力にあまることは何でもお祈りする事にしていました。「神様、おじいちゃんを救って下さい。寂しい心に喜びと平安を与えて下さい」とその夜お祈りしました。

 社会人一年生になって、私は祖父に手紙を書きました。「イエス様は人間を罪から救い、死の恐れと苦しみから解放して下さる方です。おじいちゃんもイエス様を信じて下さい」と。返事がきました。「私は俳句を作ることが生きがいであり喜びだ。信仰の心要は感じない」との文面でした。

 それから3年の後、また手紙を書きました。返事がきました。「親しい同級生が次々に死んでいく。まことに心細い。こんなに年老いてからでも信仰を持つことができるだろうか」と。それから祖父は、孫の私の話を子供のようになって聞いてくれました。熱心に質問もしました。「人は死んだらどうなるのか。神は本当にいるのか。イエスはどうして神なのか。天国にはどうしたら行けるのか」等々、半年ほど熱心に学びました。
しかし「イエスは救い主だということは分かった。だがまだ信じる気にはなれない」と言いました。

 それから間もなく祖父は脳軟化症で倒れ、泣くことしか出来ない人になってしまいました。その絶望のどん底で初めて「神様あなたを信じます。助けて下さい」と叫びました。祖父はその後、散歩まで出来るようになり、私たち家族と共に教会の礼拝にも出席しました。祖父は数年後、死の恐れと苦しみから解放されて安らかに天に帰っていきました。年老いてもなお、幼な子のように心を開くことのできた祖父は、素敵な人だったと思います。

文・佐藤順子

文・渋沢清子