《福音》恵みのおとずれ 1993年6月号

私は私一人だけでは生きることができません。「人」という字は、一人の人が股をひろげて立っている姿を描いたものだという説がありますが、むしろ、二人の人が互いに頼り合って人となる、と見た方が筋が通るのではないかと思います。

 ヨハネの手紙は、ヨハネ個人によって書かれたもので、何人かの執筆者による共作ではありません。にもかかわらず、大事な手紙の内容を伝えるとき、殆どの場合、彼は「私たち」と複数形を使っています。

 「聞いたこと、目で見たこと、じっと見、また手でさわったこと」(Ⅰヨハネ1:1)も、「私」一人が独占した、すばらしい経験ではなく、「私たち」共通の経験だということです。経験だけではなく、真理を解き明かすのも、「私」ではなく、「私たち」なのです。それは当時手紙を書くときの習慣に過ぎないのだといえばそれまでですが、ヨハネは、ほんの数回「私」(Ⅰヨハネ2:1、8、13)を使って文を綴っているところからすると、意識的に、単数、複数を使い分けていたようです。

 日本では、ちょっと神がかり的な経験をするとその人がたちどころに教祖になって、また一つ宗教法人が増えます。問題はー人の人が経験し、解き明かしたものを、複数の人の同じ経験で実証されないまま、大勢の人々がそれを鵜呑みにしてしまうということです。これほど危険な宗教団体はありません。だからナイーブな人々ほど騙されてしまうのです。「私は」キリストの生まれ変わりだとか、「私は」釈迦の声を聞いたとか、「私」だけの経験で、人を間違った道に引きずって行こうとするものに注意しなければなりません。ヨハネが同じ手紙の中に、「愛する者たち、霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)と警告しているのはこの事実なのです。

 日本とよく似た霊的な混乱があったので、それを正そうとして、ヨハネはこの手紙の冒頭に、「私たち」が「聞いたもの、目で見たもの…」とヨハネの神体験を複数形で繰り返し説明したのです。(Ⅰヨハネ1:1、2、3、4)大勢の証人によって数千年来伝えられてきた聖書の真理が正しいのは当然です。そして『私たち』もヨハネのような経験が出来るのです。

文・北野耕一

文・渋沢清子