《福音》恵みのおとずれ 1993年7月号

たまらなく淋しいと悩んでいる人がいます。一人や二人ではなく、私たちの周りに大勢います。時には淋しい人が、淋しくない人よりも多いのではないかと思うことがあるほどです。都会に行けば、一時的に気を紛らわせる手段がいやというほどあります。そうした「催しもの」はいつも町を賑わしております。社会学者のデイビッド・リースマンが以前、出版した書物「孤独な群衆」という題名が共感を呼ぶような人間社会に私たちが住んでいるのです。人がいなくて淋しいのではなく、皮肉にも人がいるから淋しいのです。

 科学技術の発達が、私たちの生活をこんなにも便利にしてくれました。それにもかかわらず様々の方法で人と人は機械的に「接触」していますが、その中に暖かい「交わり」があるとは言えません。

 また、あまりに忙しいため、心と心のかよう深い交わりを持とうとする余裕がないのです。マルチン・ブーバーという思想家も「我と汝」と呼び交う人間味のある関係を「私とそれ」という非人間的な関係に対比させています。功利的に換算した目的をもった付き合い、それとも生理的欲望を満たすためだけの目的で接触するとするならば、相手が仕事場での同僚であろうと、友人であろうと、たとえ妻・子であろうとも、それはまさしく「あなた」ではなく「それ」になってしまいます。人と人の関係ではなく、人と物との関係なのです。そういう関係の中にあるものは、「交わり」ではなく、「接触」にしかすぎません。

 それだけで生きているから、人がそばに居るのに空洞の中に居るようなやるせない気持ちになります。淋しさから脱却して「交わり」を取り戻すきっかけを、ヨハネの手紙が提供してくれました。

 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:2)ヨハネは更に続けて、「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(Ⅰヨハネ1:4)と記しています。キリストにある交わりによって、淋しさが取り払われ、「喜び」を共有することが出来るのです。

文・北野耕一

文・渋沢清子